「気付き」と「学び」は、何が違うのか? ~ビジネスにおけるケース~
「気付き」と「学び」は、何が違うのか?
私は企業の現場に入り、目標を絶対達成させるコンサルタントです。企業研修なども手掛け、多くの方々の前でセミナーや講演をすることもあります。すると参加者から、
「今日の研修では、多くの気付きがありました」
「今日の研修では、多くの学びがありました」
このように言われることが多々あります。「気付き」と「学び」という言葉を同じような意味合いとして使っている、ということですね。
よくよく考えてみると、「気付き」と「学び」は、何が違うのでしょうか? 言葉の厳密な違いはともかく、どう解釈したほうが自己成長に繋がるのか、今回は考えてみました。
「気付き」は他人から得られるものだが、「学び」は自分でしか手に入れることができない――。これはよく言われることです。
私もそう思います。
「気付き」とは文字どおり気付くこと。何か新しいことを発見すること、新しく意識することを指します。たとえば、
「こんな道端に花が咲いているだなんて、はじめて気付いた」
とは言いますが、
「こんな道端に花が咲いているだなんて、はじめて学んだ」
とは言いません。
「学ぶ」とは、勉強して身に付けること。主体性がキーです。たとえば、
「私は高校で野球をやっているときに、チームワークの大切さを学んだ」
とは言いますが、
「私は高校で野球をやっているときに、チームワークの大切さを気付いた」
とは言いません。少し変です。
「気付き」と「学び」の違い2つのポイント
「気付き」と「学び」の違いについて、私はポイントが2つあると考えています。
●受動的か/能動的か
●点か/線か
「気付き」は受動的です。他人から与えられるもの。いっぽう「学び」は能動的です。自ら手に入れるもの。したがって先述した企業研修でいえば、1時間の講話を聴いても、1日ぐらいの研修を受講しても、ほぼ「気付き」しか得られないでしょう。「学び」を得たいなら、半年とか1年といった長期間の講座を受けるしかないのです。
「気付き」は点であり、「学び」は線で捉えるべきだからです。点で手に入れたものは泡沫的ですが、線で手に入れたものは自分の血となり肉となります。
「気付き」で手に入れたことを話しても、まるで他人の言葉を借りて喋っているように聞こえ、みずから学んだことであれば、自分の言葉で語ることができるのはこのせいです。
ビジネスの現場では、区別して捉えたほうがいい
企業講演を依頼されると、よく
「横山さんの情熱的な講演で、わが社の営業が何かを学んでほしい」
と言う社長がたくさんいます。しかし私は即座にこう言いかえします。
「私の講演を聴いても、気付きしか得られません。参加者の皆さんが学ぶかどうかは、その後の行動にかかっています」
と。
最近「気付き」ばかりを求め、新奇性の高い情報を探す人がとても増えています。ですから価値ある情報もすぐに飽きられ、時代遅れとレッテルを張られます。
ビジネスの現場において、本当に大切なことはそれほど多くありません。あまり「気付き」ばかり得ようとせず、いったん得た「気付き」をどのように「学び」に変換するか。情報に振り回されないためにも、これからの時代は「気付き」と「学び」を区別してとらえることが大事だと私は考えています。