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歩き巫女の千代は、本当に鳥居元忠の妻だったのか? 馬場信春との関係は

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
巫女さんのイラスト。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、鳥居元忠が主君の徳川家康に報告することなく、歩き巫女の千代を妻に迎えていた。

 千代と言えば、かつて武田氏のスパイのような活動をしていた女性である。本当に元忠は大きなリスクを冒してまで、本当に千代を妻として迎えたのだろうか。

 千代は武田信玄・勝頼父子に仕えていたので、徳川方にとっては厄介な女性だった。むろん、架空の人物であるが、大河ドラマでは強い存在感を示した。家康が妻の築山殿(瀬名)と子の信康を自害に追い込んだ際、穴山信君とともに暗躍していたのが千代だった。

 瀬名は戦乱の世を終わらせるため、千代や信君を呼び出し、勝頼を引き入れて織田信長に対抗しようとしたが、それは失敗に終わった。むろん、フィクションである。その千代は馬場信春の娘だったことも、今回明かされることになった。

 元忠は、正室として松平家広の娘を迎えていた。松平家広は現在の愛知県蒲郡市形原に本拠を置く、形原松平家の当主である。家広は家康と同じく、もともとは今川氏に仕えていたが、桶狭間の戦い後は家康に仕えていた。家広の妻は水野忠政の娘で、於大の方(家康の母)の姉だった。この点は、重要であろう。

 元忠には側室がおり、それが馬場信春の娘だった。信春は武田氏三代(信虎、信玄、勝頼)に仕えた重臣で、武田四天王の一人でもあったが、天正3年(1575)5月の長篠の戦いで戦死した。武田氏が滅亡したのは7年後の3月なのだが、元忠が信春の娘を迎えた時期は不明である。

 元忠と信春の娘の間には、成次、忠勝、忠昌の3人の男子と娘1人がいた。成次が誕生したのは、元亀元年(1570)のことなので、元忠と信春の娘が結ばれたのは、それより約1年前に遡ることができよう。誠に残念ながら、2人が結婚した時期や経緯などは不明である。

 これまで、千代は望月盛時の妻と言われてきた。千代は各地で情報収集を行い、武田氏に報告していたという。それゆえ、千代は女性忍者の「くノ一」であるともいわれてきたが、武田氏に「くノ一」がいたとの史料はない。一般論で言っても、「くノ一」の存在は疑問であると指摘されている。

 いずれにしても、千代は架空の女性であるし、元忠の妻になったこと、あるいは馬場信春の娘だったということも根拠が明確ではない。脚本上のフィクションであるのは明白であるが、仮に事実だったとしても、本当に家康が許してくれるのか疑問である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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