大坂夏の陣後、あまりに旨味のなかった諸大名への恩賞配分
大河ドラマ「どうする家康」が12月17日で最終回を迎え、大坂夏の陣で徳川方が豊臣方を破って、戦いが終結した。戦後、徳川方は恩賞配分を行ったが、それは旨味のないものだったので、検討することにしよう。
慶長20年(1614)5月の大坂夏の陣で徳川方が豊臣方に勝利し、戦後に恩賞配分が行われた。しかし、蜂須賀至鎮が7万石を与えられたのが最高で、旨味のない戦いだった。
敵は豊臣秀頼だけで、大坂は江戸幕府が接収したのだから、諸大名への配分は必然的に少なくなった。大名の中には毛利氏や吉川氏のように、財政難の状況にも関わらず出陣した者もいた。最初から恩賞がアテにならなかったとはいえ、きった頭を抱えたに違いないだろう。
恩賞の配分は、分け前が少ないという事情もあり、軍功を第一に決定された。そして、諸大名の中で徳川方の勝利の功労者として、井伊直孝と藤堂高虎などが大いに処遇された。
直孝の戦いぶりは群を抜くものがあり、真田信繁の軍勢を討滅させる一番のきっかけとなった。直孝は、さらに従四位下・侍従にも叙された。きっと、直孝は満足したことだろう。
高虎は戦いの中で多くの兵を失ったが、その労に報いられたということになろう。道明寺の戦いでは後藤基次を討伐するなど、著しい活躍を示した水野勝成も、3万石の加増という恩恵を受けた。
このように、基本的には戦いにおける軍功に応じて、諸将に恩賞は配分されたのである。しかし、関ヶ原合戦後の恩賞配分と比較すると、あまりに少なすぎるといわざるを得ない。
一方、戦いで亡くなった者については、いかなる処遇がなされたのだろうか。毛利勝永軍と交戦し、壮絶な戦死を遂げた本多忠朝の場合は、兄の忠政に5万石が加増された。そして、忠政の次男・政朝に忠朝の跡を継がせた。こうして政朝は、大多喜藩の二代目当主になったのである。
小笠原秀政は天王口の戦いで重傷を負い、まもなく落命した。同時に、長男の忠脩も戦死していた。小笠原家の家督は、次男の忠政(のちに忠真)が継承し、あわせて5万石が加増され、遺領の松本藩を継いだのである。片桐貞隆の加増は、兄・且元が大坂夏の陣終了後に亡くなったので、その功に報いたものであろう。
このように、幕府は苦心惨憺して恩賞配分を行ったが、諸大名は不足があると感じたことだろう。こうして幕府は盤石な体制を築き上げ、幕末維新期までの約260年もの長きにわたり続いたのである。
主要参考文献
渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)