吐血地獄からの生還ー3
1989年8月10日、海部内閣が誕生したその日に私は自民党の「政治改革推進本部」に呼ばれ、米国の議会中継専門テレビ局C―SPAN(シー・スパン)について説明した。
ベトナム戦争の反省から、米国では政治に透明性を導入する政治改革が行われ、それまで禁止してきた議会のテレビ中継を認めた。議会が撮影を行い、その映像を誰にでも無料で提供する。地上波テレビはニュースに使用するだけだが、多チャンネルのケーブルテレビには無編集で放送するC―SPANが誕生した。英国がこれを真似てまもなく同じような放送が始まる。
私は説明の最後を「C―SPANはNPO(非営利法人)ですが、日本はまだNPOが認められておりません。どんな事業体が良いのかを先生方で検討していただきたい」と締めくくった。
すると後藤田正晴・本部長代理が「共同通信は社団法人、新聞社は株式会社、NHKは特殊法人で民間放送は株式会社、我々からすれば共同も新聞社もNHKも民放もみな不満だ。我々の話を勝手に編集するからだ。編集をしないのなら事業体は何でも良い」と発言した。
出席の政治家から反対や疑問の声はなかった。中でも自民党の放送委員長として放送行政に影響力を持つ吹田あきら(りっしんべんに日と光)衆議院議員が「大賛成。すぐにでもやるべき」と強く実現を支持した。
私はC―SPANを理解してもらうため「密室国会をひらけ!」と題するドキュメンタリー番組を作った。その年の11月に始まった英国議会のテレビ中継と、モデルとなった米国C―SPANのユニークさを紹介、政治学者の佐々木毅東京大学教授に日本政治の課題を解説してもらった。
「密室国会をひらけ!」のビデオテープをC―SPANに贈ると、創立者のブライアン・ラム社長から「我々は米国の三大ネットワークに挑戦しているテレビだ。だから大テレビ局のTBSと組む気はない。しかしあなたの番組を見て全く誇張がないので、我々と同じ仕事ができる人だと思った。あなたがTBSを辞めれば我々はあなたに配給権を与えることを検討する」と言われた。
村木良彦と私は週末の金曜日に東京を発ち、ワシントンの金曜日にC―SPANと配給権の交渉を行うことにした。そのため資本金500万円の小さな会社を作った。ところが交渉を重ねるうちC―SPANから「三菱商事とNHKも配給権を欲しいと言ってきた。三社競合です」と言われた。三菱商事は通信衛星を打ち上げて衛星放送事業をやろうとしていた。NHKはBS放送を開始するところだった。
C―SPANは三菱商事でもNHKでもなく我々に配給権を与えた。「今回の決定はビジネスではなくエモーションで行った」と両社に連絡したという。私はC―SPANの映像を欲しがった三菱商事とNHKはお客になると思ったが全く逆だった。大組織を出し抜いた不埒な奴と思われたのか、むしろ敵視されるようになる。
配給権を得たことで、私はC―SPANの1室を借り、2名の社員を雇い、C―SPANの映像を録画・配信する設備を整えた。冷戦が終わり、米国の最大の脅威は日本経済だったから、米国議会では毎日のように日本批判が繰り広げられた。私はその映像に日本語訳をつけ日本で販売しようと考えた。
1時間程度のビデオテープを毎週1本、政党、官庁、企業を相手に販売した。大きかったのは日本航空が機内ビデオに採用してくれたことだ。またTBSとテレビ東京で深夜番組を制作することになり、佐々木毅東大教授と外務省の岡本行夫に司会をお願いした。
活字の出版も行った。米国議会には「議会調査局」という議員専用のシンクタンクがあり、800名の研究者が定期的に報告書を執筆している。市販されないので日本に関係する報告書を議員から入手し、それを日本語訳して出版した。
取次制度のある日本では書店に置くことが難しい。学者が買ってくれるだけで経営的には赤字だが、なぜそんなことをやったかと言えば、冷戦が終わった世界の激変に米国は真正面から向き合っているのに、日本では国全体がバブル景気に浮かれ、世界の変化に気付いていなかったからだ。
冷戦後の日本の最初の試練は「湾岸戦争」だった。90年8月2日にイラク軍がクウェートに侵攻、世界各国の議会は夏休みを切り上げ8月末から議論を始めた。米国議会は2か月以上の時間をかけ、200名に及ぶ参考人を議会に呼び、侵略にどう対応するかの議論を行った。
冷戦時代の国連は米ソ対立で安保理が機能せず、国際社会が結束して侵略を阻止することはできなかった。しかし冷戦が終わり、ソ連も中国も多国籍軍の結成に賛成した。ブッシュ(父)米大統領は多国籍軍を結成し侵略を阻止する方針を打ち出した。
しかし戦争行使の権限を大統領に与えるのは議会である。議会が賛成しなければ大統領は戦争できない。個々の議員は自らの政治生命を賭けて議会で戦争に対する賛否を述べ採決に臨む。C―SPANはそのすべてを放送した。民主主義のルールに基づく戦争の議論は緊張感に満ちたものだった。
一方、日本は10月まで国会を開かなかった。開けば憲法9条を巡る水と油の議論になり、収拾がつかなくなると予想されたからだ。日本政府は国民的議論がないまま1兆円を超す巨額の資金援助で多国籍軍に貢献することを決めた。
ワシントンで私は米国人から「日本経済の生命線は中東の石油である。その中東で戦争が起きようとする時、日本は国会を開かなかった。国民の議論がないまま資金援助を決めた。日本は米国と肩を並べる大国になると思っていたが間違いだった。永遠に米国に従属するしか能のない国であることがよく分かった」と言われた。
日本で自衛隊派遣を主張したのは小沢自民党幹事長ただ一人で、海部総理も憲法9条があるため自衛隊派遣はできないとの立場だった。戦後の日本は憲法9条の大切さを国民に教え、野党に護憲運動をやらせ、米国が軍事要求を強めればたちまち政権交代が起きて親ソ政権ができると米国に思わせた。
しかし野党は政権交代を行わないよう自民党と水面下で手を握っていた。それが軍事を米国に委ね、経済に力を集中する保守本流の「軽武装・経済重視路線」である。日本国民と米国を騙すことで日本は経済大国に上り詰めた。ただしそれは米ソ対立の冷戦構造が前提だった。
冷戦が終わればそのカラクリは効力を失う。そのことに日本人は気付いていないと私は思った。「軽武装・経済重視路線」を乗り越えないと日本は冷戦後の世界に対応できない。それが私の危機感だったが、案の定、日本の資金援助は国際社会から冷たい目で見られた。
米国は軍事と経済の両面で日本批判を強めた。米国議会は日本の経済構造を冷静に分析し、その弱点を探り出す作業を始める。上下両院合同経済委員会は「湾岸戦争」が始まる直前の90年末に「日本経済の挑戦」と題する分厚い報告書をまとめた。
日本の企業系列、金融市場、労働市場、科学技術、防衛政策の実態を議員たちが理解できるように分析したのである。私は米国議会の動きを日本政府がどう見ているか、外務省と通産省の官僚に問い合わせたが、まったく動きを把握していなかった。
1991年末にソ連が崩壊すると、私の危機感はさらに大きくなった。米国では歴史的な瞬間を自分の目で確かめようと現職議員が大挙してモスクワを訪れた。しかし日本からモスクワを訪れた議員はたった一人しかいなかった。
宮沢総理は「これで平和の配当が受けられる」と世界が平和になるかのようなことを言った。しかし米国政府はまるで逆だった。ソ連が厳しく管理してきた核技術や核技術者が他国に流出する恐れに緊張感を高めていた。
さらに米国議会は米ソ対立を前提に作られたCIAや米軍の見直しを始めた。ソ連のために作られた組織や配備は一から見直すという姿勢である。結論を出すのに議会は3年程度の時間をかけた。結果、ソ連崩壊で世界の危機は増大すると判断され、CIAは強化、米軍の配備も世界規模で行われることになった。
ところが日本にはソ連崩壊に対応する議論がなかった。日米安保体制で仮想敵だったソ連が消滅したのだから、日米安保条約や自衛隊の配備を見直す必要があるはずだが、国会も政府も「冷戦の終わり」を対岸の火事のように眺めていた。
ソ連崩壊から5年後にようやく日米安保条約は米国に主導される形で「再定義」された。それまで日本は何も考えることなくただじっと米国が結論を出すのを待っていた。「湾岸戦争」で米国人が私に言った「永遠の従属国になるしか能のない国」という言葉が私から離れなくなった。
日本が世界一の金貸し国に上り詰めた1985年、米国は「プラザ合意」で円高を仕掛け日本の輸出産業に壊滅的打撃を与えた。翌86年には「日米半導体協定」で世界シェア1位だった日本の半導体産業を弱体化した。そして87年の「ルーブル合意」で米国は日本を低金利に誘導した。
それが日本にバブル経済をもたらす。当時の日本は輸出で金を儲け、その金を海外に投資してまた儲ける。世界から日本に大量のマネーが流れ込み、何もしなければインフレになると言われた。
政府は大量のマネーを意図的に株と土地に吸収させた。株価と地価がみるみるうちに高騰し、低金利のせいで本来の銀行業務で利益を出せなくなった銀行は地上げに走った。
地上げはヤクザが取り仕切る世界である。地上げを通してヤクザと接点ができた銀行は、内部のスキャンダルをネタにヤクザから脅され、返済の目途がない融資を迫られる。銀行から得た資金でヤクザは米国の土地を買い漁った。米国政府は日本のヤクザを入国させない措置を講じる一方、日本の銀行に不良債権処理を命じてきた。
銀行は日本型資本主義の「血管部分」と言われた。日本型資本主義の特徴は、企業が株式や社債を発行して資金を得る「直接金融」ではなく、銀行から資金を借りて事業を行う「間接金融」にある。そのため企業にはメインバンクがあり、メインバンクから役員を受け入れて企業経営を行う。
その銀行の頭取には大蔵省の官僚が天下りする。それによって大蔵省の意向、つまり日本政府の意向が銀行を通して企業に行き渡る。しかも日本に政権交代はない。米国はその仕組みを「政官財の癒着」として厳しく批判したが、その中枢の銀行がバブル崩壊と共に大量の不良債権を抱えて経営不振に陥り、米国の「ハゲタカ・ファンド」の餌食になった。
冷戦時代の日本は軍事を米国に委ねることで経済的成功を実現した。しかし冷戦が終わると一転して軍事を米国に委ねているため経済的に没落していくように私には見えた。それを阻止するには冷戦時代とは異なる政治の仕組みを作るしかない。
冷戦時代は、限られた時間のNHKの国会中継で、与野党は「激突」するふりを国民に見せ、裏取引を行うことで政権交代のない政治を続けてきた。これからはC―SPANのように政策を中心とした与野党論争を国民に見せれば、政治家の意識も国民の意識も変わるはずだと私は思った。
その国会テレビにC―SPANの配給権を持つ立場から協力し、時々は米国議会の議論を紹介できれば良いと私は考えていた。自民党の羽田孜国会改革委員長は衆議院議院運営委員会の中に「国会テレビ中継小委員会」を作り、そこで全党が協議し、国会テレビの実現を図ろうとした。
すると反対派が姿を現した。国会事務局と郵政省である。国会事務局は自分たちの既得権益が侵されると考えた。私も知らなかったが、国会職員の天下り先に速記者の養成学校があった。国会事務局は、国会テレビが実現すれば速記者は必要なくなると考え、それを恐れた。
郵政省はNHKの既得権益を守るために反対した。予算が国会で審議されるNHKにとって最も重要な仕事は国会対策である。そのためNHKはきめ細かく議員に食い込んでいる。時には議員の権力をバックに郵政省に圧力をかけることもある。NHKと郵政省は特殊な関係にあった。
そうした中で私が知り合った江川晃正は異色中の異色の郵政官僚だった。江川は国会テレビ構想に賛成しただけでなく、東京都議会を中継するテレビ局を作ろうとした。そしてそのテレビ局のゼネラルプロデューサーに、私と共に国会テレビを作ろうとしていた村木良彦を抜擢した。
郵政省には国会テレビに賛成する官僚と反対する官僚の両方がいた。当時の郵政事務次官は私に「日本のためには良いことだが、私の目の黒いうちは実現してほしくない。国会テレビができれば議員の先生方が張り切って法律を作り出す。そうなれば優秀な学生が霞が関ではなく永田町に行ってしまう」と言った。
そしてより重大な問題があった。それは全米7割の家庭に普及したケーブルテレビが日本では普及しなかったことだ。郵政官僚はケーブルテレビより衛星放送の方がコストが安いと言い、BS放送に力を入れていた。
ケーブルテレビを普及させない最大の壁となったのは、電波利権を追及する新聞社の思惑と、戦前の国策会社「同盟通信」の復活を企む中曽根総理が、その役割を負わせたNHKの存在にあった。(文中敬称略、つづく)