樋口尚文の千夜千本 第170夜【生誕90年】篠田正浩監督インタビュー(前篇)
「日本のヌーベル・バーグ」の旗手として1960~70年代の日本映画を牽引し、80年代以降は異色の話題作、問題作を連打する娯楽映画の名匠として活躍した篠田正浩監督。90歳を迎えた今年、42年間「封印」されていた泉鏡花原作の大作『夜叉ケ池』の4Kデジタルリマスター版公開を目玉にした回顧特集上映も開催され、改めて知的遊戯に満ちた作品群のモダニズムが注目を浴びる。その篠田監督独特の映画術についてインタビューを試みた。
――このたびは篠田監督が90歳を迎えられ、そのタイミングで42年ぶりに『夜叉ケ池』が4Kデジタルリマスター版として生まれ変わって再公開され、これを目玉に篠田作品の回顧特集上映も開催されます。大変おめでとうございます。
篠田 ありがとうございます。自作のなかでも、いろいろな事情から皆さんの目にふれる機会がなくなっていた『夜叉ケ池』がデジタルリマスターされた美しい映像で再公開されるというのは本当に嬉しいことです。
――このデジタル修復と再公開というのは篠田監督が思い立たれたのですか。
篠田 去年の夏に思い立ちまして、(坂東)玉三郎さんに連絡したんです。すると玉三郎さんも「私も篠田監督と久々にお会いしたいと思っていました」とおっしゃってくださって、ぜひ改めてリリースして多くのお客さまに観ていただきたいですねと同意してくださったんです。
――年頭には修復版が出来ていましたから、そこから実作業も順調に進んでいたのですね。
篠田 まず42年前の原版をデータ化して改めて観てみたのですが、意外にこのままでもいいのではとさえ思うくらいに美しい映像だったので、驚きました。それをレストレーションの作業室で玉三郎さんとご一緒に相談しながらさらに修復していったので、仕上がったものはとても鮮やかなものになったと思います。
――玉三郎さんも出向かれてご一緒に相談なさりながらという工程は本当に素晴らしいですね。今回拝見していると、たとえば合成のバレ消しなど旧版を観ていてわれわれも「あそこは消してほしいな」と思ったところが凄くいいあんばいで改善されていましたし、ここにうっすら光芒が入ったらいいのにと思った箇所にも新たにそういう効果が足されていて嬉しくなりました。そういう加減もお二人のご相談の結果なのですね。
篠田 そうです。全て玉三郎さんと意見を出し合って合意のうえで修復しました。そもそも旧作をデジタル修復する時は、オリジナルの映像や音声を改変せずそのままクリアにするというのが基本姿勢だと思いますが、『夜叉ケ池』ではごく細かいところで当時もう少し技術的にうまくできたらと残念だったところは、許される範囲内で直しました。
――その修復や追加の程度についてもひじょうにデリケートに配慮されているのを感じました。あまり直し過ぎないように、でもわれわれが手を加えてほしかったところはほどよく精度をあげておられたので、むやみに同一性保持にこだわらない理想的なデジタルリマスターだと思いました。
篠田 今はデジタルで何でもできちゃうので、ついついどこもかしこも直したくなってしまうのかもしれませんが、少し効果を足すといってもあくまでレストレーション用の部屋でできる範囲内のことなので、そこが逆に幸いしていいあんばいになっているかもしれません。
――映像はもとより音声や音響についてもぐんとクリアになっている印象でしたが。
篠田 音は私ももちろんこだわりましたけれども、音声のトーンやバランスについては玉三郎さんがとても繊細に指示を出されるのでさすがだなと思いました。
――『夜叉ケ池』は玉三郎さんを筆頭に新劇の加藤剛さんもいればアングラ劇団の唐十郎さんもいて、美術も粟津潔さんに朝倉摂さん、音楽は冨田勲さんによるクラシックのアダプテーションで、まさに篠田監督のもとに異分野の才能たちがごっそり集結して極めて特異なる文化の祝祭をやっている感じですが、篠田監督は監督デビューされた若き日からこういうさまざまな才能を映画に引っ張り込む天才でしたね。
篠田 僕が最初に監督したのがニール・セダカのヒット曲にあやかった『恋の片道切符』で、あれは日本映画が初めてロカビリー、後のロックンロールを扱った作品だったわけです。そもそもそのロカビリー、ロックンロールというのが、今はもうみんなそんなこと忘れてますが、1950年代の初めに黒人音楽のブルースと白人音楽のカントリーやブルーグラスが越境融合して生まれたものです。そういうものに惹かれるところは昔からありましたね。
――たとえばどんなことでしょう。
篠田 早稲田大学の文学部時代にフランス語の教授はヴィクトル・ユーゴーを教えたりするんだけど(笑)、ぼくらはやっぱりサルトルを読みたいわけですね。その頃にサルトルを大江健三郎が一所懸命日本語訳した文章を読むと、日本のオーセンティックな思考や文体がサルトルのそれとぶつかり合って、何かひじょうにぎくしゃくした、でも凄く魅力を放つ文章になるわけです。それはもはや日本でもフランスでもない、両者が融合したクレオールの味わいで、そういうものにとても惹かれていました。これがあらかじめアメリカナイズされた世代の村上春樹の文体だと、そこに齟齬がなくてスマートで読みやすいので、ちょっと違うわけですよ(笑)。
(後篇につづく)