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藤原道長の息子で、のちに栄耀栄華を極めた頼通とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
藤原頼通。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道長の息子・頼通が権中納言に就任した場面が描かれていた。頼通は日本史の教科書に登場するほどの有名人だが、どういう人物なのか改めて確認することにしよう。

 頼通が道長と倫子との間に誕生したのは、正暦3年(992)のことである。この頃は、まだ道隆(道長の兄)が健在だったが、その死後は道長が内覧に任じられたので、頼通もその恩恵を大いに受けることになった。なお、教通は同母弟になる。

 道長には、側室として明子がいた。2人の間には、頼宗、能信らの子がいたが、彼らの昇進は倫子の子(頼通、教通)よりも遅かった。倫子は正室だったので、その子は厚遇された。母が誰かにより、その後の運命が左右されたのである。

 長保5年(1003)、頼通は12歳で頼通と名乗り、元服を果たした。加冠役を務めたのは内大臣の藤原公季で、同時に正五位下に叙せられた。寛弘3年(1006)、頼通は従三位に昇叙すると、その2年後には正二位に昇叙した。

 寛弘6年(1009)、頼通は権中納言に就任し、左衛門督を兼ねたのである。この辺りは、ちょうどドラマでも描かれており、藤原実資と言葉を交わしていたのが非常に印象的だった。まだ、この時点では、頼通もフレッシュだったのだ。

 その後の頼通の詳細な官暦は省略するが、最終的には摂政、関白、太政大臣、藤氏長者などを歴任し、まさしく黄金時代を築いた。頼通が亡くなったのは、延久6年(1074)のことである。83歳だったので、当時としてはかなりの高齢だった。

 頼通は約半世紀にわたり、摂関の地位にあったが、それは父の道長の婚姻政略の賜物だった。頼通自身は妻との間に子ができず、側室を娶るよう道長から勧められたが、非常に困った様子だったという。道長は、そんな頼通に子をもうけるよう助言した。

 頼通の行った政策と言えば、荘園整理が有名であろう。また、宇治別業を寺院とし、平等院とした。西方極楽浄土を表現した阿弥陀堂(鳳凰堂)は有名で、頼通が亡くなった場所でもある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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