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平清盛に顔を踏みつけられても、罵倒し続けた僧侶とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平清盛。(写真:イメージマート)

 平氏が全盛期を迎えた頃、密かに打倒平氏の謀議が行われていた。しかし、密告により謀議が露見し、関係者は捕らえられた。西光は平清盛に顔を踏みつけられても、罵倒し続けたといわれているので、その経緯などを確認することにしよう。

 西光は、麻植為光の子として誕生した(生年不詳)。俗名は、藤原師光である。のちに出家して西光と名乗ると、「第一の近臣」として後白河法皇に仕えた。子には、師高、師経らがいた。

 ことの発端は、安元3年(1177)5月に後白河法皇のもとで、打倒平氏の謀議が行われたことだった(鹿ヶ谷の陰謀)。参加した面々は西光のほか、藤原成親・成経父子、平康頼、俊寛、多田行綱らである。

 彼らは平氏一門の台頭を望んでおらず、平重盛・宗盛兄弟(清盛の子)が左右大臣になったことに危機感を抱いていた。謀議の内容は、祇園御霊会の際に平氏の六波羅屋敷を襲撃し、一網打尽にして滅亡に追い込もうとするものだった。

 ところが、謀議に参加した行綱は彼らを裏切り、事の次第を平清盛に密告したのである。激怒した清盛は、ただちに謀議に加わった面々を捕らえるように命じた。事態を知った西光は後白河法皇のもとに逃亡しようとしたが、向かう途中で捕縛されたのである。

 『平家物語』によると、清盛は連行された西光を蹴り倒し、「身の程を知らず、平氏に逆らう者はこうなるのだ」と言うと、土足で西光の顔を踏みつけた。ところが、西光は屈することなく、反抗的な態度を取り続けた。

 西光は「貴殿の父の忠盛は、公卿に席を同じくすることを嫌悪されるほど、卑しい身分だった。そんな父の子の貴殿が太政大臣まで昇進するとは、過分なことだろう」と言い返したので、清盛は激昂した。

 清盛は西光をすぐ斬らぬよう命じると、西光は激しい拷問を加えられ、謀議について自白させられた。その後、西光は口を裂かれると、五条西朱雀で処刑されたのである。西光の子や郎党も同じ運命をたどった。

 なお、鹿ヶ谷の陰謀をめぐっては、清盛がでっち上げたという説もある。この4年後、清盛は亡くなった。以後の平氏は坂道を転がり落ちるかのように、滅亡の道を進んでいったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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