“歌・舞・演”で蘇る“奇術師”の本領(その1)〜オペラ「眠れる美女」を予習する
川端文学後期を代表する傑作として知られる「眠れる美女」が、装いをまったく変えて、故国へ逆輸入される。
12月10日と11日の両日、上野の杜に建つクラシックの殿堂、東京文化会館大ホールで行なわれるオペラ「眠れる美女」の公演を前に、この作品の背景となっている3つのキーワードについて予習をしてみたい。(全3回)
keyword 1:川端康成と「眠れる美女」
「眠れる美女」の雑誌連載は、1960年から61年にかけての17回。全体を5章に分けて、1961年11月に上梓された。
川端康成といえば、代表作として真っ先に挙げられるのは「伊豆の踊子」か「雪国」ではないだろうか。
「伊豆の踊子」は初出が1926年、悩みと感傷で鬱々とする青年が、伊豆を旅する途中で出逢った無垢な踊子との交流で解放されていく過程を描いた短編。
「雪国」は、1935年から37年にわたって書き継がれた連作で、雪国を訪れた主人公の男性が温泉町で生きる女性たちを心象描写するというスタイルの長編。1937年に7章をまとめた単行本が刊行されたあとも加えられ、1948年に完結本が上梓された。
いずれも20代から30代にかけての“川端初期”と呼ばれる時代の作品で、新感覚派と名付けられた“自在な精神の表現”を、自身の体験に落とし込みながら恋愛というエッセンスで仕立て直すという、芸術性と大衆性のバランスに優れた内容であったことから、日本文学を代表する作品とされる。
一方で「眠れる美女」は、第2次世界大戦後の精力的な執筆活動を経て国内外で評価が高まるなか、“魔界”と呼ばれる超現実的なシチュエーションによって心理描写を塗り重ねる手法を用いて、新たな世界観を表現することになる“後期”を象徴する作品として知られる。
1950年代後半、川端は国際ペンクラブ大会日本開催のために奔走するなど、執筆以外の活動にも追われていた。1958年末には胆嚢炎を悪化させて入院。1959年(つまり「眠れる美女」起稿の前年)には一編も小説の発表がないという、作家としては忸怩と不安に苛まれたであろう時期でもあったようだ。
そうしたプレッシャーが彼を睡眠薬依存へと誘ったことは想像に難くない。睡眠薬への執着は、この「眠れる美女」にも現われていて、“魔界”を体験するために必要な“旅の道具”であったと言えなくもない。
<続>