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仏教の戦争責任④ 「零戦」を献上した仏教界

鵜飼秀徳ジャーナリスト、正覚寺住職、(一社)良いお寺研究会代表理事
浄土宗が陸軍に献納した「吉水号」(筆者提供)

零戦を競うように献上

 戦時中の仏教界の軍事支援は、金属供出や土地提供などの銃後運動という間接的支援だけにはとどまらなかった。宗門が主体的に、強力に戦争に関わった事例の最たるものが、零戦をはじめとする軍用機、あるいは軍艦の献納だ。戦闘機の献納を最も積極的に実施したのが浄土宗である。

 陸軍と海軍に計18機を献納。仏教界全体では50機以上が献納され、終戦直前には特攻機として使用された。真宗大谷派では軍艦の建造も行なっていた。

 冒頭に念のために触れておくが、戦闘機の献納は多くの企業や自治体、各種団体、一般市民まで広く実施しており、仏教界だけが特別ではないことを断っておく。特に朝日新聞社は軍機献納を大々的に呼びかけ、計300機を献納している。

仏教界全体で51機が献納

 陸軍への献納機の総称は「愛国号」、海軍は「報国号」と呼ばれた。そして、献納者がそれぞれの機体に固有名をつけた。

 横川裕一『陸軍愛國號献納機調査報告』(2011年)によれば、陸軍の軍用機献納は1932(昭和7)年1月に陸軍愛国1号から始まり、1945(昭和20)年春ごろまで続いた。愛国7169号(浄土宗宝泉寺号)がもっとも大きい数字で、欠番はほとんどない。

 海軍の「報国号」は5000機以上が確認されているので諸団体や個人から、陸海両軍に計1万2000機以上の献納がなされたことになる。

 仏教系団体が献上したのは判明しているだけでも陸軍愛国号が30機、海軍報国号が21機(ほか宗教連合で3機献上)の計51機である。献納者の名義は宗門や本山のほか、地域仏教会、仏教報国会などである。

 仏教界が陸軍に献納した機種で最も多いのが、一式戦闘機(通称「隼」)だ。海軍では零式艦上戦闘機(通称「零戦」)がほとんど。いずれの機種も、戦局の悪化とともに特攻機として使用された。

 軍用機の価格は戦闘機が7万円、偵察機・軽爆機が8万円、重爆撃機20万円ほど。現在の物価水準で換算すると、戦闘機1機が1億8000万円超という高額であった。

 仏教界で軍機献納の狼煙を上げたのは本門佛立宗である。1933(昭和8)年5月7日、「佛立号」が大阪城練兵場で献上された。同年は満州事変の2年後にあたり、国際連盟を脱退した年だ。江戸時代末期に法華系の講から生まれた比較的新しい教団で、京都の宥清寺を本山としている。

 続いて同月30日に成田山新勝寺が「新勝号」を送っている。

 大阪の四天王寺は1944(昭和19)年代に寺名の四天王にちなんで、「持国天」「増長天」「広目天」「毘沙門天」の名称をつけ、献納した。『陸軍愛國號献納機調査報告』によれば、操縦席には仏像が安置されたという。

浄土宗が知恩院門前で献納式

 宗門も熱心に献上した。圧倒的に献納数が多いのは浄土宗である。陸軍愛国号を7機、海軍報国号を11機、計18機を献納している。うち1機は吉水会と呼ばれる尼僧集団から提供された「吉水号」である。他は「明照号」という機名に統一されている。ちなみに「明照」とは、明治天皇より下賜された宗祖法然の大師号(例:空海の大師号は「弘法」)のことである。

 浄土宗では1943(昭和18)年、「愛国機(2式単座戦闘機)」6機を陸軍に贈ることが決まった。3月4日に総本山知恩院に近い岡崎公園で雨天の中、実際に献上機を並べて、命名式を実施した。

 命名式には京都府知事、京都市長、浄土宗管長郁芳随円、知恩院執事長、末寺住職らが列席。神道式で実施され、神職が祝詞をあげた。

 この日の命名式には浄土宗の「明照号」のほかに、浄土真宗本願寺派の「西本願寺号」など、京都経済界からは島津製作所、日本電池(現GSユアサ)、キンシ政宗などからの献納機がずらりと並んだ。

 浄土宗では翌年には海軍に献上する報国号の命名式も行われている。

1943(昭和18)年12月15日付の『宗報』には、こう記されている。

《大詔奉戴二周年を記念し 愛国機「明照号」の献納を提唱 挙宗報国の赤誠を捧げよ

 凄愴苛烈なる決戦の關頭に立って、仇敵米英撃滅の成否を決するものは、統帥の至厳、作戦の絶妙、将兵の勇武、国民の士気に絶対の確信を置き得る我が国としては、一にかゝって戦力の増強、就中航空機の飛躍的増産の達成如何にあると云はれ、一機でも多く、寸刻も早く……とは現下の絶叫である。

 南太平洋の血戦場に、砂を噛み、血涙を振って死闘奮戦を続ける将兵をして「幾度となく敵を叩きつける、機はあれど飛機なきを奈何せん」と無念の歯がみをさせ、惜ら忠勇なる神兵をして敵鐡量の餌食として、尊い碧血を流さしめてゐると聞いて、誰かジーッとしてゐられようか?》

 浄土宗はこのような、物々しいキャッチコピーとともに末寺に向けて献納を呼びかけた。要項には末寺の等級(格式や経済力などに応じて決められる)に応じて、負担金を決めている。

 浄土宗宗報には、終戦まで毎号のように献納を呼びかける広告が躍り続けた。浄土宗有志でつくる法然上人鑽仰会が発行する月刊誌『浄土』(昭和20年1月号)には、明照号献納運動の盛り上がりをこのように伝えている。

 「この献納運動に際しても女史の活躍は目覚ましいものがあつた。(鳥取・一行寺婦人の中野久子)女史は一行寺婦人会十九名を督励し、一月八日大詔奉戴日の寒空の中を終日街頭に起(た)つて資金募集を叫び続けた。(中略)その結果、わずか一日で、女史の手許に集つた献納金は四百四十円二十三銭といふ金額にのぼつた。(中略)女史をしてかくまで絶叫させたのには、もつともつと大きい理由があつたのである。女史は長男を航空隊操縦士に、次男を戦車隊に、そして三男を学徒荒鷲にと愛児を全部第一線に送つてきた。(中略)女史の絶叫は戦場で奮戦する愛児の聲(こえ)でもあつたからである」

浄土宗報に掲載された明照号献納の告示(浄土宗宗報)
浄土宗報に掲載された明照号献納の告示(浄土宗宗報)

 檀信徒でつくる婦人会らの献金活動は全国の浄土宗寺院に広がり、先述のように最終的に献納された数は18機にも上った。

 日本最大の仏教教団、曹洞宗では1941(昭和16)年7月以降、宗門末寺約1万4000か寺や檀家にたいして軍機(愛国機)献納のための募金を開始する。宗内には興亜局という戦時部局が設けられ、最終的には、海軍に「曹洞一号、二号」と名付けられた戦闘機2機、陸軍に患者輸送機1機を献納した。

 かつて筆者は臨済宗相国寺派管長で、京都仏教会の理事長を務める有馬頼底に戦闘機の献納を取材している。有馬氏は、戦時下で資金難にあえいでいた京都市から臨済宗妙心寺派にたいし、二条城を1万円で売却する提案がなされたと明かした。

 最終的に二条城の取得は実現しなかったが、この提案がテコになって妙心寺側は陸海軍にたいし、1945(昭和20)年4月までに軍用機2機を寄贈したというのだ。この献納機は陸軍が「花園妙心寺号」、海軍が「臨済号」と名付けられた。

京都・妙心寺も戦闘機を献納
京都・妙心寺も戦闘機を献納写真:イメージマート

真宗は軍艦を献納

 では、浄土真宗教団はどうだったのか。浄土真宗本願寺派は地域ごとに4機、愛国号を献納しているが、意外に少ない印象である。真宗大谷派では軍用機の献納はみられない。資金不足に陥っていたのかとも推測されたが、それは違った。

 真宗大谷派では1943(昭和18)年、軍艦建造のために多額の献金を実施していたのだ。献金は2期に渡って実施され、少なくとも1期では100万円(現在では25億円以上)という巨費が海軍に渡された。

 大戦中、真宗大谷派の宗務総長を務め、戦後は国会議員になった大谷瑩潤は、「第二次建艦運動」に際し、このように通達をしている。

 「今や時局の緊迫は、その最高潮に達した感があります。殊にガダルカナルの犠牲、山本(五十六)元帥の戦死、アッツ島の玉砕等、つぎつぎと起った悲愴なる戦局によって、国民の一人一人は、さらに強く決死報国の覚悟を決め、撃ちて止まむの敵愾心に、いよいよ愛国の熱情を沸らせたのであります。

 この重大なる秋に際し、わが御一派の報国運動の一つとして、昨年十二月以来、その運動を展開し来れる建艦献金運動の第一次分として、金壱百万円を去る五月三十一日海軍次官沢本頼雄中将を通じて献金することが出来ましたのは、誠に欣快(きんかい)に堪えないところであります。

 (中略)しかし、一万の末寺、百万の門信徒を包容する吾派としては、必ずしも満足な数字でもありませず、また単に住職主管者のみに留めるべき性質のものでもないと考へられますので、茲に続いて第二次の運動を展開し、広く門信徒の一人一人に呼びかけることになったのであります。

 (中略)要するに『朝家のおんため国民のため念仏し申し合す』といふ精神によって立つわが御一派が、その皇道真宗としての真面目をこの度の建艦報国運動の成果において、具体的に顕示せんとするものであります」

 この二期募集の要項では「一期の幾層倍ノ献金額ヲ期待ス」とし、2円以上の献金者には本願寺名義の感謝状の贈呈が書かれている。

東條英機夫人も参加

 大谷派の第二期献金運動では、東條英機の勝子夫人も参加。また、「祇園の姐さん」が「この運動を聞くやたちどころに三味線に色香を追う時局に非ずとして、日常生活を断じて」100円を献金。さらに、愛知県豊橋別院内の花園幼稚園では幼児らが建艦献金箱を工作し、そこに幼児らも「一銭献金」し、「積もり積もって一回分金百余円」を寄進したという。

 軍用機や軍艦の献納運動などは「報国会」や「仏教婦人会」といった銃後を支える各種団体によって推し進められた。こうした半官半民のファッショ団体が勃興していった背景には先述したように、1937(昭和12)9月以降、第1次近衛内閣から始まった国民精神総動員運動があった。

 国民精神総動員運動は、産業界や労働組合などのほか宗教界やその傘下の婦人会、青少年団体も加わったものであったが発足当初はさほどの広がりは見せなかった。だが、戦争が長期化の様相をみせることで、より自発的かつ強力な戦争協力体制が求められるようになってきた。

 そこで1940(昭和15)年、国民統制組織「大政翼賛会」が発足すると、国民精神総動員本部はそこに統合。仏教界の連合組織として、大日本宗教報国会(後の興亜宗教同盟)や宗教団体戦時中央委員会(のちの大日本戦時宗教報国会)が発足した。

 こうした連合組織は政府の方針を受けると、宗門へと伝えられた。宗門は具体的な協力活動を打ち出し、末寺や檀信徒に伝達された。仏教界は侵略戦争を全面的に支援する銃後運動の連携体制がしっかりと整っていたのである。

 1941(昭和16)年6月には、小石川の伝通院で第1回大日本宗教報国大会が開催される。開催にあたっては、各宗教団体代表者が明治神宮と靖国神社へ参拝し、その後、会議が開かれるという「手順」が踏まれた。

 大会では「皇国宗教の本旨を発揚し、以て大東亜共栄圏の建設に邁進し、世界新秩序の樹立に協力せんことを期す」との宣言を採択している。

 婦人会については愛国婦人会の結成以降、各種団体が発足した。愛国婦人会が高額な会費を徴収して、上流階級の子女が集まった団体に対して、大阪の主婦の団体から発展した大日本国防婦人会は庶民的な団体であった。

 大日本国防婦人会は安価な会費が支持されるとともに、割烹着で出征兵士を見送りする姿が大きく報じられるなど、勢力を拡大。最大900万人の会員数を誇った。

 その各種婦人会は1942(昭和17)年2月には、大日本婦人会に統合されたが、宗門や寺院の中ではセクト化した婦人会が活動を続けた。

 軍部への献納の種類は上記以外にも、大谷派婦人法話会では陸軍へ軍用患者自動車2台分、1万2000円を献金するなど枚挙に遑がない。

 大谷派では宗門の子弟にたいし、戦闘機パイロットの養成まで実施していた。実際に練習機2機を購入し、法主が「翔鸞」、宗務総長が「飛鸞」と命名した。

 多くの仏教団体の軍用機や軍艦の献納が、特攻隊を筆頭にして計り知れない犠牲を生んだ。推して知るべし、という言葉だけでは済ませられないだろう。

 仏教界の兵器の献納の詳細は、拙著『仏教の大東亜戦争』(文春新書)をご覧いただきたい。

ジャーナリスト、正覚寺住職、(一社)良いお寺研究会代表理事

1974年、京都市生まれ。成城大学卒業。報知新聞、日経BPを経て、2018年に独立。正覚寺(京都市)第33世住職。ジャーナリスト兼僧侶の立場で「宗教と社会」をテーマに取材、執筆、講演などを続ける。近年は企業と協働し「寺院再生を通じた地方創生」にも携わっている。著書に『寺院消滅』(日経BP)、『仏教抹殺』『仏教の大東亜戦争』(いずれも文春新書)、『ビジネスに活かす教養としての仏教』(PHP研究所)、『絶滅する「墓」』(NHK出版新書)など多数。最新刊に『仏教の未来年表』(PHP新書)。一般社団法人「良いお寺研究会」代表理事、大正大学招聘教授、東京農業大学・佛教大学非常勤講師など。

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