20年後、「戒名」がなくなる
人生における「最後の通過儀礼」のはずだが
戒名不要論が、広がってきている。戒名とは、仏門に帰依した者に付けられる名のこと。現在では死後に与えられることが通例になっている。戒名を高額で「販売」する寺も出てきて、トラブルを招く事態にも。また、「ジェンダーレス」の時代において、男女の区別がある戒名を望まない人々が出現(拙著『仏教の未来年表』より)。「俗名のままでよい」とする事例も増えている。
戒名制度は、いまの時代にどうあるべきなのか。千年以上の歴史を有する戒名が、いま岐路に立っている。
戒名は、その起源や定義、付け方などは宗派や地域によって異なるので、一概にはいえない。古くは生前、仏門に帰依した証として、僧侶が授けていた。現在では菩提寺の住職が訃報を受けると、急いで考案し、枕経や通夜で授与することがほとんどである。
戒名授与は人生における「最後の通過儀礼」として、極めて重要な役割を果たしている。しかし、その運用をめぐって、人々の意識との間に乖離が起きていることは否めない。
ひとつは、戒名に「グレード(階級)」があることが、問題を生じさせている。
一般的に戒名は、字数の多さに比例して、グレードが上がると思われているようだ。しかし、浄土真宗系宗派に限っては「釋○○」と、3字の法名(浄土真宗では戒名とは呼ばない)が通例で、男女の別もない。本項では浄土真宗以外の宗派の戒名について述べる。
まず、戒名の構造を説明しよう。戒名の基本形は2字だ。その下に位号と呼ばれる「信士・信女」「居士・大姉」などが付けられる。中世以降、支配階級や僧侶によって戒名の字数が増やされていく。貴族や武士、あるいはその夫人らに対して、「院」「院殿(いんでん)」「誉(よ)」「大居士(だいこじ)」「清大姉(せいだいし)」などの格式の高い戒名が与えられた。
たとえば、徳川家康の戒名を例にして、解説してみる。家康の戒名は「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」だ。いかにも格が高そうだが、先ほど述べたように本来の戒名の部分は「道和」の2文字である。
「院殿」は、位階で「従三位」以上の大名に与えられる特別な称号だ。「蓮社(れんじゃ)」は、現在では浄土宗僧侶に付けられるものであり、家康が浄土宗の念仏信者であったことを示している。「誉」は、五重相伝(ごじゅうそうでん)という儀式を受けた者に与えられる。
ほかの武将の戒名をみれば、織田信長は「総見院殿贈大相国一品泰巌大居士」、豊臣秀吉は「国泰祐松院殿霊山俊龍大居士」である。
ちなみに明智光秀は「秀岳宗光禅定門」(他にも多数あり)、石田三成は「江東院正軸因公大禅定門」と、位号が「禅定門」となっている。
禅定門(尼)は主に、関西で使われる戒名だ。「居士(大姉)」に準じる、もしくはその下位にあたる戒名とされる。天下人と、権力闘争に敗れた者の差が、死後の格差となって現れている。
近年では、非業の死を遂げた安倍晋三元首相は「紫雲院殿政誉清浄晋寿大居士」と付けられた。いまは武家社会ではないので、「院殿」は用いられないのが本来だ。だが、安倍氏に与えられた位階が「従一位」であったことで、「将軍並み」の戒名になったのかもしれない。
2022(令和4)年に亡くなった石原慎太郎元都知事(位階は正三位)の戒名は、「海陽院文政慎栄居士」だ。「院殿」は付いていないが、海と太陽をイメージし、さらに文学と政治の要素が盛り込まれた石原氏らしい戒名といえる。
「うんこくさい」を戒名にした有名人
著名人の戒名は、石原氏のような「○○院○○○○居士(女性の場合は大姉)」のパターンが多い。昭和に活躍した著名人の例を挙げてみよう。(敬称略)
石原裕次郎「陽光院天真寛裕大居士」
美空ひばり「茲唱院美空日和清大姉」
坂本九「天真院九心玄聲居士」
著名人の中にはユニークな戒名もある。
大島渚氏は「大喝無量居士」。大島氏はかつて、テレビ討論番組で「バカヤロー」などと、大声で相手を叱責することが少なくなかった。作家の野坂昭如氏とパーティの席上で殴り合いの喧嘩をしたことも、よく知られたエピソードだ。大島氏とやりあった野坂氏のほうは「戒名などいらない」とし、付けられていない。
遺言によって戒名を拒否したのは、ほかにも実業家の白洲次郎氏、俳優の渥美清氏らがいる。
落語家の立川談志氏は生前に自ら、戒名を付けていた。「立川雲黒斎家元勝手居士」。読み方は「たてかわ・うんこくさい・いえもと・かって・こじ」。「うんこくさい」との、自虐的な戒名は一見、型破りで異色の戒名のように思えるが、割と多い。
しかしながら、通常は戒名に用いられる字は、経典の中の言葉や、花鳥風月を連想するもの、故人の趣味や性格、さらには俗名などから、バランスよく選ばれるべきである。したがって、住職には言葉選びのセンスが問われることはもちろん、生前戒名の場合には本人、あるいは遺族には「その戒名を付けた意味」を説明する義務がある。
その上で「戒名料」を取るのは、是か、非か、を論じたい。
複数の葬祭業のホームページをみると、宗派・ランク別の戒名が書かれ、「戒名代」の目安が記されている。あるサイトだと、「居士・大姉の目安が30〜80万円」「院居士・院大姉の目安が100万円〜」とある。
また別の寺のサイトでは「院号居士が推定60万円」「院号大居士が推定200万円」「院殿大居士が推定500万円」などとある。
これらをみると、戒名がグレードごとに「販売」されている実態がよくわかる。しかし、「目安」や「万円〜」「推定」などが添えられているのをみても、戒名料には明確な基準がないことがわかる。
庶民に「院殿大居士」などの戒名が付けられたとしても、あまりにアンバランスだ。だが、カネさえ払えばそうした位の高い戒名が得られているのが実状である。
住職のほうから、「先祖代々の戒名には院・居士がついているから、今回も同等の戒名をつける。その際のお布施は○○万円」などと、半ば強制的にグレードの高い戒名を要求するケースもあると聞く。半世紀ほど前であれば、高位の戒名がもらえることは名誉であったかもしれないが、現代では戒名にこだわらない人のほうが多いのではないか。
戒名料のバブルはなぜ起きたか
なぜ、戒名が切り売りされているのか。理由のひとつに、かつてバブル期に芸能人の戒名が高額で取り引きされ、その金額が報じられたことで、「戒名の販売」が一般化したことが挙げられる。
タレントが亡くなった際に、芸能プロダクション側が「戒名料は高くてもよいので、最高ランクの戒名をつけてほしい」などと大寺院に申し出るケースだ。あるいは、著名人や政治家の死亡時に、寺院側が〝忖度〟して過剰に高い位の戒名をつけてしまうケースもある。
ここで、あえて言いたい。戒名は、販売対象では決してないということ。ネットなどで戒名の料金を明示することも、やってはいけないことだ。
なぜなら「院」や「居士」は、信仰に篤く特別な儀式を受けた信者や、長きにわたって寺を護持してきた檀家に対して付けられるものであるからだ。したがって、菩提寺と関係性のない者に対して、「戒名を売る」という行為自体が間違っている。住職も仮に檀信徒から高位の戒名を頼まれたとしても、多額の布施と引き換え、ということは慎むべきだ。
それに、院号居士がついた戒名だからといって、「死後の扱い」が優遇されるわけでもあるまい。
著名人への「戒名販売」が、なし崩し的に庶民の世界に広がり、恒常化していった面は否めない。戒名自体は必要なものかもしれないが、戒名に「差」をつけたことで弊害が生まれた。平等や寛容、慈悲をとなえる仏教にあって、仏法と矛盾した戒名の階級をなくすことを、検討する時期にきているのではないか。
本来、戒名は故人と遺された者、あるいは菩提寺とを結びつける、有益なコミュニケーションツールでもある。しかし、現場の寺院での運用が適切ではないがゆえに、さまざまな軋轢を生む元にもなっている。仮に戒名の習わしを継続させるとしても、高額で販売するなどもってのほか。宗門は末寺に対する指導を徹底するとともに、仏教界は現代社会に対応した柔軟な戒名の運用を考えていくべきだ。
本稿は拙著『仏教の未来年表』(PHP新書)より再編集した。