【戦国こぼれ話】やはりハンコがいい!戦国大名が用いたさまざまな印章とは?
■ハンコは本当になくなるか
河野太郎行政改革・規制改革相がハンコの廃止を打ち出したが、何もこの世からすべてのハンコが消滅するわけではない。あくまで業務上必要か否かによって、判断されるらしい。
ところで、戦国大名のハンコすなわち印章は、どれも個性的で魅力的でもある。今回は、戦国大名が用いた印章について考えてみよう。
■印章とは何だろうか
古文書の様式の1つには、印判状というものがある。印判状は、花押の代わりに印章を捺したものである。古代の公文書には官印を捺すことになったが、やがて廃れていき、私印を用いる例もほとんど見られなくなった。
平安末期から鎌倉期にかけて、中国の宋・元から印章を使用する風習が持ち込まれ、禅僧たちが盛んに用いるようになった。しかし、それは絵画に落款(らっかん)として捺すものが多く、武将が印章を用いるようになったのは、おおむね15世紀後半頃からである。
■礼が薄い印判状
印判状は花押よりも礼が薄いため、対等あるいは上位の人物に書状を送る際は用いることが少なく、おおむね領内の民政に関する文書に使用されている。
印章は花押のように手書きする必要がないので、大量に発給する際は便利だった。それゆえ、印章そのものは国主たる大名の象徴であり、やがて権威を帯びるようになった。戦国大名は競って印章のデザイン・形・大きさや印文などに気を配り、それぞれの家印としての性格を高めていったのである。
■諸大名の印章
北条氏は氏綱の代になって、「祿壽應穩」の上に虎のデザインを施した方形の「虎の印」を用いるようになった。印文の「祿壽應穩」は、禄(財産)と寿(生命)が応(まさ)に穏やかであるようにという意味である。
動物を象った印章としては、甲斐の武田信玄(晴信)・勝頼父子が使用した円形の「丸龍の朱印」もよく知られている。
印文については、実にさまざまである。越後の上杉氏は「立願勝軍地蔵・摩利支天・飯繩明神」という仏神の名号を朱印とし、駿河の今川氏は「如律令」という印文を用いた。
徳川家康は「福徳(幸福と利益。財産や幸福に恵まれていること)」、「忠恕(誠実で思いやりのあること)」の印章を用いた。前田利家のように、単に「利家」と自分の名前を彫った印章もある。
■織田信長の「天下布武」印
印章のなかでよく知られているのは、織田信長の「天下布武」印であろう。最初、「天下布武」印は金で製作したが、印影が薄かったので銅を混ぜて作り直したという。
「天下布武」印は永禄10年11月に美濃・斎藤氏を討った頃から使用しており、信長は少なくともこの頃から上洛を志向したと考えられる(実際の上洛は翌年の9月)。なぜ信長は「天下布武」という文字を選んだのか。
「天下布武」という文字を選んだのは、政秀寺の開山の沢彦宗恩という僧侶である。当初、信長は「天下布武」という4文字を嫌っていたという。そこで、沢彦は中国では4文字の印文は普通に用いられていると助言したと伝わる。
なお、当時の天下は日本全国を指すのではなく、京都を中心とした五畿内を意味する。
■ユニークな印章
余談ながら、印判状は男性だけの専売特許ではない。今川氏親の妻・寿桂尼(印文「帰」)や赤松政則の後妻・洞松院尼(印文「釈」)も印章を用いて、文書を発給していた。また、黒田孝高・長政父子や細川忠興の印章は、印文にローマ字を彫っている。
印章には、それぞれに深い意味が込められていた。それらの意味を確認するだけでもおもしろい。