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徳川家康の居城だった浜松城近くに謎の穴を発見。武家の財宝?徳川埋蔵金?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
埋蔵金。(提供:イメージマート)

 過日、浜松城の近くの住宅の庭で、謎の穴が発見された。こちら。「武家の財宝(埋蔵金)が埋められていたのか!」と思われたが、実際は戦時中に築かれた防空壕の可能性が高いという。むろん、武家の財宝(埋蔵金)と思われたのは、徳川埋蔵金の伝承があったからだろう。この点を詳しく考えてみよう。

 戦国大名の埋蔵金に関しては、多くの伝承が残っている。戦国時代は鉱山の採掘技術が飛躍的に良くなり、各地で金山や銀山で金銀が掘られた。石見銀山、佐渡金山は、その代表でもある。

 それらは海外に輸出されたほどであり、中でも日本における銀の産出量は、日本でもトップクラスだった。採掘された金や銀は、戦国大名の貴重な財源となったのである。

 たとえば、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、信長の居城の安土城(滋賀県近江八幡市)から金銀を運び出したといわれている。光秀が羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れ、逃亡中に土民に討たれると、配下の明智秀満が金銀を琵琶湖に沈めたという伝承がある。

 甲斐の武田信玄は金山衆を組織し、黒川金山(山梨県甲州市)などから金を採掘していた。子の勝頼の代に武田氏は滅亡したが、その際に鶏冠山(甲州市)や諏訪湖(長野県諏訪市)に金銀を隠したという。

 また、豊臣秀吉も子の秀頼のために、莫大な財宝を多田銀山(兵庫県川西市ほか)に隠したと伝わっている。秀吉の埋蔵金の量に至っては、今の国家予算を大幅に上回るほどの額だったという。

 いずれも魅力的な伝承ではあるが、誰かが発見して大儲けしたという話は、寡聞にして知らない。

 埋蔵金に関する伝承の多くは、一次史料(当時の書状など)に書かれたものではなく、言い伝えなどの伝承、あるいは江戸時代の古文書にまことしやかに書かれたものばかりである。したがって、情報源としては真偽が不明で、あまりアテにならない。

 徳川埋蔵金も同じことで、多くの伝承が残っている。家康に即していえば、その死後には莫大な遺産が残され、久能山(静岡市駿河区)の蔵に納められたと伝わっている。その金銀は御三家に分け与えられ、日光東照宮の改築費用に使われたという。その残りが埋蔵金になったといわれている。

 もっとも有名なのは、幕末に江戸幕府が赤城山に隠したという徳川埋蔵金だろう。こちらは夢とロマンがあるので、書籍の出版だけでなく、テレビなどで大きく取り上げられたことがあるが、結局は発見されなかった。

 現時点において、戦国大名が残した埋蔵金は、根拠が乏しく見つかる可能性は低いように思える。まったくのゼロともいえないが、仮に埋蔵金が発掘されても、発見に至る費用も掛かるだろうから、採算が合うのかという問題が残る。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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