火災後の本能寺で、織田信長の焼死体が見つからなかった本当の理由
天正10年(1582)6月2日、織田信長は明智光秀に攻められ、本能寺で自害して果てた。その後、本能寺は焼けてしまったが、焼け跡から信長の焼死体は見つからなかった。これが実に困ったことだった。
仮に、信長が生きて脱出していたならば、態勢を整えて光秀討伐に乗り出すかもしれない。そうなったら、光秀はひとたまりもなかった。羽柴秀吉は自身の書状の中で、「信長様は生きています」と書いている。これも一種の情報戦で、諸大名を味方に引き込む方策だった。
光秀は信長の焼死体が見つからないので、非常に不安になったという。そこで、見かねた配下の斎藤利三は「信長が合掌して、火の手が上がる建物に入っていくのを見た」と述べた。そうすると光秀は安心し、二条御新造の攻撃に向かったという。
信長の焼死体が発見されなかったことは、「本能寺から逃げ出していた」などの憶測を呼んだ。その後、信長が亡くなったと報じる記録はあっても、生きていたことを示す史料はない。したがって、信長が本能寺で死んだことは、紛れもない事実である。
フロイスは信長の最期について、「灰すらも残ることなく燃え尽きた」と書いた(『日本史』)。この記述は非常に悪意に満ちたもので、フロイスが信長を嫌っていたから、こう書いたのだろう。
信長の死体は見つからなかったのではなく、わからなかったというのが事実だろう。本能寺には多くの焼死体があったものの、判別が不可能なほど黒焦げになっていたに違いない。現代であれば、歯型の分析やDNA鑑定で判別できるかもしれないが、当時はそのような技術はなかった。。
信長の焼死体が見つからなかったことは、どうしようもなかった。そこに特別な理由や意味はなかった。焼死体特有の事情があったのだ。信長の焼死体は見つからなかったのではなく、単に「わからなかった」、「判別不能」だったのである。