本人の意思に関わりなく、むりやり辞めさせられた3人の将軍
政局が混迷を深め、総選挙や政権交代が取り沙汰されている。かつて、我が国には幕府が主宰する武家政権が存在したが、本人の意思に関わりなく辞めさせられた3人の将軍がいたので、紹介することにしよう。
◎源頼家
頼家は頼朝と政子の間に誕生し、鎌倉幕府の2代将軍に就任した。頼家の後ろ盾になったのは、妻の父でもある比企能員だった。能員はその立場を利用して、権勢を築き上げた。
しかし、北条時政らは頼家や能員を警戒し、意思決定を13人の宿老による合議制へと移していったのである。
建仁3年(1203)、頼家が病に罹った隙に乗じて、時政は能員と頼家の子の一幡を葬り去った(比企能員の乱)。
その後、頼家は将軍の座から引きずり降ろされ、弟の実朝が新将軍になった。頼家が伊豆の修禅寺で謀殺されたのは、元久元年(1204)のことである。
◎足利義材(義稙)
足利義尚の死後、10代将軍になったのが義材(義視の長男)である。義材は義尚の政策を引き継ぐと、近江六角氏を討伐し、制圧することに成功した。
明応2年(1493)、義材は反抗する畠山基家を討つべく、河内に出陣することにした。この動きを快く思わなかったのが、細川政元である。
政元は日野富子と結託し、義材を将軍の座から引きずり下ろし、代わりに足利義澄(堀越公方・足利政知の子)を擁立することに成功した。
その後の義材は、大内義興を頼り、再び将軍の座に就いた。ところが、義興が自身の領国へと戻ると、義材は頼りにしていた細川高国と対立して京都を出奔。大永元年(1521)に阿波国で亡くなったのである。
◎足利義昭
はじめ義昭は興福寺一乗院に入っていたが、兄・義輝の死をきっかけにして、室町幕府の再興を固く誓った。
永禄11年(1568)、義昭は織田信長の支援により、念願の幕府再興を果たした。しかし、その後の義昭は政治路線をめぐる食いちがいから、徐々に信長との関係が悪化していった。
天正元年(1573)、ついに義昭は信長と決裂し、戦いを挑むことになった。ところが、義昭は信長に惨敗を喫して、ここに室町幕府は滅亡したのである。
以後、義昭は各地の大名を頼り、幕府の再興を模索したが実現しなかった。義昭が無念の思いを抱きながら亡くなったのは、慶長2年(1597)のことである。