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大反響だった元体操五輪・岡崎聡子さん獄中薬物手記を改めて全文公開する

篠田博之月刊『創』編集長
岡崎聡子さん自筆の手紙(筆者撮影)

 先頃掲載した下記記事に約100万のアクセスがあった。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20191109-00150103/

田代まさしさん逮捕も驚いたが、岡崎聡子さんの薬物依存獄中手記はさらに深刻だ

 この記事は月刊『創』12月号に掲載した元体操五輪代表の岡崎聡子さんの獄中手記の前半を公開したものだが、反響が大きかったために改めて手記全文を公開することにした。

 というのも、手記は前半で母親との確執など自分の薬物人生を振り返り、後半で何とかそこから脱出したいという思いを書いたものだ。前半の薬物人生の話も壮絶なのだが、今回、彼女がそこから何とかして脱したい、これを転機にしたいと訴えた部分もあわせて読まないと、彼女の転落人生ばかりが多くの人に印象づけられてしまう気がしたからだ。確かに逮捕歴14回と報道された(面会でそのことを話したら、本人も「それ本当なの?」と驚いていたが)彼女の薬物依存は深刻だが、そこから脱却しようという意思を彼女が一方で持っていることも理解すべきと思う。

 なので以下、『創』に掲載した手記全文を引用するが、その前に、岡崎さんが約10年前、『創』2009年11月号に発表した手記からも一部を紹介しよう。彼女が何を契機に薬物にはまっていったのかを書いた部分だ。

最初の薬物体験はアメリカだった

《私が最初に薬物を体験したのは、アメリカのロサンゼルスに、エアロビクスの勉強に行っていた時でした。最初はアメリカにいる間だけ使っていました。コカインもやるようになりました。そのうち日本でも、つきあっていたのが六本木の水商売の人だったこともあり、入手もできました。

 仕事が終わると一服、という感じで、アルコールと同じ感覚で使っていました。食べ物もおいしいし、何しろ楽しい。箸が転んでもおかしい年代に、それが10倍面白い。気持ちがパッと明るくなるし、活力も出る。もちろん性的な部分での快楽もありました。

 ちょうどタバコやアルコールと同じで、薬物とは一度その効用を知ってしまうと、なかなか知らなかった頃には戻れないものだと思います。よく薬物依存者はいろいろな症状が出てくると言われますが、私の場合は精神的依存はありますが、身体面では何の影響も現われませんでした。恐らくその辺は個人差があるのではないでしょうか。

 もちろん乱用の怖さはあると思います。お金と同じで、使っているつもりが逆に支配される。その結果、逮捕となれば一気に堕ちていく。それが、今の日本の覚せい剤使用者のなれの果てかもしれません。》

《私の薬物での逮捕は今回で5回め。薬物を始めてから合計すると10年くらい、生きている時間の半分くらいを獄中で過ごしていることになります。私がオリンピックにも出場した元体操選手であるため、逮捕のたびに報道され、家族には大きな迷惑をかけてきました。家族は本当にやりきれない思いをしてきたと思います。

 女子刑務所に入って一番つらいのは、残された子どもが施設に入れられて淋しい思いをしているとか、そういう話が多いことです。何の罪もない子どもが一番の犠牲者かもしれません》

 この時の「逮捕は5回目」と本人も書いているが、その後の10年間で、それはどんどん増えていった。では以下、2019年4月28日に逮捕され、裁判を経た彼女の獄中手記全文だ。前半を既に読んだ人は、途中から読んでもよいかもしれない。ただ長くなるので前回、少しカットした部分も今回は含まれている。

夢を砕かれた母親は悲しい目でつぶやいた 

 赤いランドセルを背負い、道草が日課の私だった。

 母の夢。

「バレリーナか、体操をやりたかったわ、戦後のこの国じゃ、夢のまた夢よ」

 3歳からバレエを習い、9歳から体操を始めた。

 母の夢が私の夢へと変わる。

 毎日が楽しくてしかたない。

 憧れの選手に近づくために、一歩一歩本気で進む。

 そんな無邪気な一方、成長するにつれ、自分の存在が、常に正しく、努力家で、少し胸の張れる人間でいることを、自他共に求めてきたところもあった。

 いつからだろうか、時々、心に堅い鎧をまとうようになった。

 大きなケガが重なったころからだったのか?

 天真爛漫とは裏腹に、必要なこと不必要なこと共に耳を塞ぐようになった。

 小さな私だけの箱に引きこもり、頑張れない自分、弱い自分が受け入れられず、認められない。心は常に孤独だった。

 のちに、私は薬物使用で逮捕される。菊屋橋留置所の面会室。アクリル板の向こうの母の、指先のふるえが止まらない。

「あなたのおかげで、声が出なくなったわ、“失語症”」

 小さなかすれた声でそう話す。

 これを皮切りに、薬物使用を繰り返す私に、

「あなたのせいで、私は全てのものを失ったわ」

 悲しい目で、度々つぶやく母。

 私には返す言葉もない。

 件の母も、父も、子供たちの父親も、前刑、公判中、受刑中にそれぞれ他界した。今となれば、そんな母の愚痴さえも、懐しく思える。

 でも、誰のせいでもない。悪いのは、全て私なのだから、キツかった。

 受刑生活を繰り返してきた私だが、薬物使用を良いことだと考えたことはない。“やめたい”と思う気持ちはもちろんあるが、その思いが、どれほどのものだったのかと問われれば、いかんせん、心もとない。

 いつでもやめられる。そのための懲役であると思っていた。しかし、現実は違っていた。ほんのひとときの夢を前に、ためらいも、罪悪感も、“二度と再び薬物に手を染めないでほしい”と願う人たちの思い、言葉の全てが無力だった。

 自業自得と自嘲して、刑務所帰りのレッテルを他の誰でもない、自分自身が貼りつけて絶望……。自分に嘘をつく、そんな自分がますます許せなくなる。すべての悲しみを忘れさせてくれる薬。楽になりたいと思い使う薬が神経をヘトヘトにすり減らすものになるなんて……。

 許しといえば。先日、ダライラマ法王14世の、ゆるしについて書かれたものを目にした。「ゆるしとは“相手を無罪放免にする手段”ではなく、“自分を自由にする手段”です」

――許さないという思いは、実は怒りや憤りに、自分自身を縛り付けてしまうことなのだと。

 このダライラマ法王の言葉にハッとした。“許す”ということをそのように考えたこともなかったので。

迎えてくれる両親ももういなくなった

 人生を投げ捨て、夢を追い、傷を負い、誹謗中傷どこ吹く風、やさしさや、愛に満ちた言葉でさえ、“問答無用”と切り捨てて、一瞬の夢を求め続けた。

 大切なはずの家族、多くの人、自分を傷つけながら。

 行き着く所は、塀の中。

 迎えてくれる両親ももういない。

 前刑は初めての満期出所。実質4年半ぶりの社会での生活は、穏やかで明るいものに違いない。出所の嬉しさと、二度と戻りたくないと思うプレッシャーの中……(いったい何をやっているんだろうか)。また薬物を使ってしまった。

 だが……何一つとして楽しくない。自己嫌悪に苛まれる。年のせいからくる、体質や体力の問題からか? すっかり大人になった息子と娘。初孫との嬉しい対面。いくつかのよき出会い、再会が、私の何かを変えたのだろうか?

 正直、今更笑われそうだが、薬を使用して、初めて心の底から、もうやりたくない、使いたくないと思った。

 それなのに……。

 平成最後の日、令和はじまりの日を再び勾留者として迎えた。すっかり慣れてしまい、平気なはずの留置所の独居生活が、悲しくて、たまらなく淋しかった。

 “これ以上、重たい鎧を着たまま、ひとりで歩くのも限界かなあ”

 頭の中で、自問自答が浮かんでは消える。

 5月の長い休みが明け、『創』の篠田編集長、弁護士の先生方、前刑受刑中にも何度も面会、リハビリ関連の資料の差し入れをいただいたアパリの事務局長、精神保健福祉士の事務局次長ほか、私を見守り、支え続けてくださった方が面会にきてくれた。

 アパリの事務局長とは、何度もお会いしているのに、面会室ばかりで、受刑中のお礼どころか、一度も社会でお会いしていない汗顔の至り。そんな温かい心にふれ、還暦も間近な私の心が、ふわっとほどけていく。

 やっと大切な何かに気づいた自分にとまどう私。いや、違うな。今までも、ずっと気づいていたのに、かたくなに気づかないフリをしてきただけだ。

 なぜなんだろうか。

 答えが簡単ではないことは、わかっている。まだまだ不安なことばかり。でも、ひとりじゃないんだ。今後は薬物離脱の専門の方々の指導、仲間の絆のもと、素直に、人の思いと言葉に耳を傾けて、自分のからだと魂を大切にしてゆきたい。

“健やかで、従容とした気持ちでいきたい”

 自由で楽しく無理のない道を歩けば、よき師、よき友、よき仲間との出会いがあるだろう。“変わりたい”と本気で強く願うことで、これほど多くの方々のご助力がいただけたことが、この上なく嬉しい。感謝したい。

 この苦悩と感謝の私の思いを、きっといつの日か、これからの私の行動を通して、ひとつひとつゆっくりでも、言葉や活動で形にできたらよいなと思っている。

 私の存在そのものが、人生に迷い苦しむ誰かの一助になれて、心を少しでも明るくすることができたら幸せなことだと思う。

今回の裁判を人生の転機にしたい

 今回の公判ではこれまでの自分の考えがまちがっていたことを、痛感した。私は、薬物の事件を繰り返し、懲役に行くたびに、どんどん心を卑屈にして、涙を流す人間らしい感受性を失い、社会から孤立して過ごすことに、安住していた。

 ほんの少しの勇気、ほんの少しの努力、ほんの少しの我慢、人を信じて、自分を信じるかけがえのない力…心の折れてしまった私にとっては、それらがとてつもなく巨大なものに思えて、生きることが怖くて、辛かった。

「これじゃいけない」と思っても、心を正しく保つことができなくなった。

 人生には転機があると思った。自分らしく正直に、正々堂々と心静かに健康的に明るく人と支え合い、豊かに生きたいと思い、強く願うことで、人生が確かに好転するんだな、そう感じることのできた公判だった。“証人”として出廷してくださった方々、傍聴にきてくださった方々、面会、手紙、メールと、多くの方々の励ましや、アドバイス、その心のあたたかさ、真摯さに、本当に涙があふれた。心がふるえた。

 この法廷を私は生涯決して忘れられないと思う。取り返しのつかない犯罪を犯してきてしまった私だが、こんな私でも、やり直しができるんだ、そういう“希望”を、同じ薬物で苦しむ人たちの、痛みを抱え辛い心の人たちの、万分の一でも心の支えとして役だてることができたら幸せです。

「生きている半分の時間を獄中で過ごしてきた」

 手記は以上だ。10月4日に出された判決は懲役3年4カ月だ。当初から控訴しない方針だったために刑は確定した。本人はまだ東京拘置所にいるが、既に受刑者の処遇になっており、いずれ刑務所に移送される。

 かつて1976年、モントリオール五輪に15歳で体操選手として出場、「和製コマネチ」と呼ばれて人気を博した彼女の人生はある意味で壮絶だ。

 今回の裁判の過程で彼女は初めて治療機関のダルクと接触し、自分の薬物依存の本格的治療に取りくむことを決めた。彼女自身、「生きている半分の時間を獄中で過ごしてきた」

と前の手記で書いていたが、間もなく還暦を迎えるにあたり今回が人生をやり直す最後のチャンスかもしれない。

 彼女の事件の後も、田代まさしさんなど有名人の薬物事件は頻発している。岡崎さんが今後、薬物依存とどう闘っていくのかというレポートも、機会を見て明らかにしていきたいと思う。

なお上記獄中手記とあわせて『創』12月号に掲載した、今回の岡崎聡子さんの裁判報告をヤフーニュース雑誌に公開した。ぜひ読んでいただきたい。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191116-00010000-tsukuru-soci

元体操五輪・岡崎聡子さん、薬物依存脱却への挑戦 篠田博之

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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