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家康は根に持つ性格だったのか?それとも寛大な心を持つ人物だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、家康の性格が今一つわからないところがある。今回は、さまざまなエピソードから、家康の性格について考えることにしよう。

 徳川家康は懐が深く、自身に反逆した家臣であっても、許すだけの寛容さがあったという。それは、「われ、素知らぬ体をし、能く使いしかば、みな股肱となり。勇巧顕したり」という言葉にあらわれている。家臣を上手く使えば、股肱の臣となり活躍するということだ。

 永禄6年(1563)の秋頃に三河一向一揆が勃発した際、家康に反旗を翻した夏目広次(吉信とも)は、一揆の鎮圧後に許された。広次は家康の恩義に報いるため、元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いで家康の身代わりになり、討ち死にしたという。

 本多正信も三河一向一揆に加担し、徳川家中から放逐された1人だ。その後、大久保忠世の仲介もあって徳川家に帰参した。正信は家康の股肱の臣として活躍し、子の2代将軍・秀忠にも仕え、江戸幕府で中心的な役割を果たしたのである。

 こうした家康の寛容な態度は、家臣団の結束を強めたといえる。家康は懐の深さを示す一方で、実は根に持つタイプだったともいわれている。以下、事例を確認することにしよう。

 天正7年(1579)に家康の子・信康に謀反の嫌疑が掛かったとき、織田信長は真偽について、家康の家臣・酒井忠次に問い質すとあっさり認めた。これにより、信康は切腹に追い込まれたのである(実際は、家康自身の判断で信康を殺害したという説が正しい)。

 後年、忠次が家康に息子の将来を頼んだ際、「お前でも子どもが可愛いのか」と皮肉った。忠次は何も言えず、その場から退出したという。家康は、信康が切腹に追い込まれた一件を根に持っていたのだ。

 孕石(はらみいし)元泰が今川家家臣だったとき、隣家が家康の屋敷だった。家康は鷹狩りを好んでいたが、飼っていた鷹は、元泰の家にたびたび糞や獲物を落とした。その都度、元泰は家康に苦情を申し入れたという。

 のちに武田氏家臣となった元泰は、天正9年(1581)の第二次高天神城の戦いで、家康の軍勢に捕らえられた。その後、今川時代の苦情の恨みで、家康から切腹を申し付けられたという。やはり、家康は昔のことを根に持っていたのだ。

 とはいえ、以上の話は確実な史料に拠るものではなく、単なるエピソードに過ぎない。一般論でいえば、家康も人間なのだから、そのときの気持ちやそれまでの家臣との関係によって、対応が変わったのではないだろうか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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