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出川哲朗が「抱かれたくない男」から「好感度芸人」に生まれ変わった理由

ラリー遠田作家・お笑い評論家

出川哲朗と言えば、ひと昔前までは「嫌われ芸人」の代表格だった。女性誌の「嫌いな男」「抱かれたくない男」ランキングでは常に上位をキープ。「低身長」「ダミ声」「不細工」と三拍子そろった当時の出川は、多くの女性に生理的嫌悪感を抱かれる対象になっていた。当時はテレビ出演のほとんどが、裸になったり泥にまみれたりする「ヨゴレ」の仕事だった。当時の出川は江頭2:50と肩を並べる「嫌われ芸人」だった。

だが、いつのまにか時代は変わった。出川はいまやお笑い界屈指の人気者となっている。リアクション芸人のレジェンドとして尊敬を集め、子供たちからも憧れの目で見られている。女性から「気持ち悪い」という声があがることもほとんどなくなってきた。

テレビ業界でも出川の評判は抜群にいい。数字を持っている出川はゴールデンタイムの番組にも引っ張りだこの大人気。最近では多数のCMにも出演している。1人のタレントの世間からのイメージが短期間のうちにここまで劇的に変わってしまうのは珍しいことだ。なぜこんな事態が起こったのだろうか。

「ゆるキャラ」化で子供人気を獲得

現在の出川人気を支えているのは、子供たちからの絶大な支持である。『世界の果てまでイッテQ!』を見て、体を張って未知の体験に挑む出川に勇気づけられている若者が大勢いる。そもそも中高生以下の世代の人間には、出川が嫌われているというイメージがない。だから、余分な偏見を持たず、彼の人柄の良さや勇敢さなど、良い部分を素直に受け入れることができる。

また、出川は2011~2014年に放送されていた『大!天才てれびくん』という子供番組にも出演していたことがある。この番組を見ていた子供とその親にとっては、出川は親しみを持たれる存在になっていた。

今の出川のイメージは、男性芸人というよりも、ふなっしーやくまモンのような「ゆるキャラ」に近い。ゆるキャラのような万人に愛されるマスコットキャラクターには「小さくて丸くて親しみやすい」という外見上の特徴がある。

出川も、テレビに出始めた頃はもっと痩せていたのだが、最近になって少しポッチャリしてきた。そのせいで男性的なイメージが薄れて、親しみやすい雰囲気を醸し出すようになってきた。子供番組で子供からの支持を得る一方で、『イッテQ!』というファミリー層にファンの多い番組で活躍したことで、出川の人気は揺るぎないものになった。

リアクションが芸として再評価された

また、バラエティ番組などで芸人たちが自らの芸のことを真剣に話すような場面が増えてきたことの影響も見逃せない。例えば、人気番組『アメトーーク!』では、プロの芸人たちが普段どういうことを考えながらテレビに出ているのか、というのを率直に語るような企画がたびたび行われている。

こういった番組の中で、ダチョウ倶楽部や出川哲朗にスポットが当てられて、彼らのリアクション芸が芸としていかに優れているのか、ということが語られるようになった。

例えば、熱い風呂に入ってのたうち回る「熱湯風呂」1つ取っても、どういうリアクションをすれば笑いにつながるのかということに関しては、その道のプロにしか分からない秘密のノウハウが存在する。

ある番組で千原ジュニアが出川の偉大さを知った瞬間のことを語っていた。出川と共演したジュニアは、その場の流れで自分も熱湯風呂に入ることになった。

しかし、リアクション芸に慣れていないジュニアは、両手で浴槽の枠をつかんだ状態のまま、どうやって入ればいいのか分からず、固まってしまった。戸惑っていたジュニアに対して、出川が後ろから声をかけた。

「ジュニア、手が滑るから気をつけろ!」

それは、リアクション芸のプロからの優しいアドバイスだった。ジュニアは手を滑らせて浴槽に頭から落ちていき、その場は笑いに包まれた。リアクション芸には、それを面白く見せるためのプロの技術が隠されている。それを知り尽くしているのが、出川やダチョウ倶楽部などの一流のリアクション芸人なのだ。

こういった企画やエピソードを通して、「リアクションも立派な芸である」ということが世間にも認知されるようになり、リアクション芸が再評価される気運が高まっていった。そんな中で、リアクション一筋の出川のイメージも少しずつ変化していったのである。

マネージャーの手厚いサポート

現在の出川ブレークの要因の1つとして関係者がしばしば指摘するのが「事務所とマネージャーの献身的なサポート」である。タレントはマネージャーとの二人三脚で仕事を進めていくものだ。出川はマネージャーに全幅の信頼を寄せている。

実際、出川のマネージャーには細やかな心遣いがある。例えば、熱いものを食べるときには、本当に危険な温度ではないか事前にチェックしておいたりする。また、何があってもいいように、大量の替えのパンツを用意していたりもする。出川が万全の状態で仕事ができるように、あらゆる面にわたってサポートをしている。

老舗海苔問屋の御曹司だった過去

ヨゴレ芸で有名になってしまったため、意外な感じがするかもしれないが、出川の素顔は家柄のいいお坊ちゃんである。1964年、神奈川県で出川哲朗は生まれた。実家は明治27年創業の海苔問屋。家にはお手伝いさんが5人常駐し、通学時にはベンツで送り迎えをされるなど、何不自由ない少年時代を送っていた。のちの出川がどんなに「ヨゴレ芸」をやっていても、どこかに品の良さが感じられるのは、この生い立ちに由来するのかもしれない。

ところが、高校生のときに事件が起こった。出川の父が先物取引で財産を失い、家業の海苔屋が倒産寸前にまで追い込まれたのだ。出川は家計を立て直すために高校卒業後に料理人になる決意を固めた。そこで、親戚のつてをたどって京都の有名料亭で修行をすることになった。その準備のために、尼寺で住み込みで働くことが決まったのだが、ここで出川は苦悩を抱えていた。

京都の尼寺で役者を目指すことを決意

京都の寺で還暦を過ぎた尼僧と2人きりの禁欲生活。遊ぶ時間もなければ話し相手もいない。唯一の楽しみは、月に一度の休みに街へ出て映画を見に行くことだった。京都の映画村で撮影の様子を見学したり、映画館に通ったりしているうちに、好きなことに打ち込んでいる人たちがまぶしく見えてきた。自分が本当にやりたいことは何なんだろうか、と改めて考え始めた。そこで彼の頭に浮かんだのが「役者になる」という夢だった。

親には泣いて頭を下げ、横浜放送映画専門学院(現・日本映画学校)の演劇科に入学した。ここで同期生として知り合ったのがウッチャンナンチャンの2人である。

この時点では、出川と南原清隆は俳優を目指しており、内村光良は映画監督になるのが夢だった。3人の中に芸人志望者は1人もいなかった。専門学校の授業で漫才コンビを組んだのがウンナンがお笑いを始めたきっかけである。

盟友のウンナンに導かれてお笑いの道へ

出川は、人柄が良く人望もあったため、同期の中ではリーダー的な存在だった。1987年、出川の呼びかけにより、内村や南原を含む同期生数人で『劇団SHA.LA.LA』が結成された。出川は座長として劇団を取り仕切り、スケジュール管理などの事務もこなしていた。

この頃からウッチャンナンチャンがお笑いコンビとして急速に頭角を現し始めた。『笑いの殿堂』『夢で逢えたら』などの深夜番組に出演して人気を獲得。次世代芸人の代表的な存在になっていった。

出川はこのウンナンの爆発的な人気に便乗することにした。この頃、彼はすでに映画『男はつらいよ』にも出演していて、役者として活動を始めていたのだが、自分の名前を売るためにはバラエティ番組に出るのも悪くない、と考えた。ウンナンの番組で体を張ったロケ企画などにも積極的に挑戦するようになった。

『お笑いウルトラクイズ』で伝説を作った

そんな出川の人生を変えた番組が『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』だった。たけし軍団をはじめとする芸人たちが入り乱れて、体を張った大がかりなロケに挑む伝説のバラエティ番組である。出川は並々ならぬ気合いでこの番組に臨んでいた。ここで出川のリアクション芸人としての才能が開花した。たけし軍団、ダチョウ倶楽部、松村邦洋といった猛者たちに負けないくらいの活躍をして、たけしにも気に入られた。出川が、当時まだ無名だったナインティナインの岡村隆史とムチで叩き合った企画などはいまやお笑いファンの間で語り草になっている。

また、出川が初優勝を遂げた回では、車のボンネットに張り付けになったまま、ウィニングランを敢行。車はバスに突っ込んでいき、その後でバスは大爆破。さらに、出川の乗っていた車も彼が降りてから数十秒後に爆発してしまった。まさに命がけの番組だったのだ。

たけし軍団の手荒い歓迎に感動

スタジオに初出演した際には、女優の斉藤慶子に「お前、俺に惚れるなよ」と上から目線でコメントをしたところ、これが大ウケ。たけしに話を振られた出川は「タケちゃん、これからもよろしくな」とあえて生意気な口を利いてみせた。ここでたけし軍団など周囲の芸人が一斉に出川を囲み、容赦なく制裁を加えた。この荒々しい歓迎に、出川はようやく自分が芸人として認めてもらえたと思い、感極まって涙をこぼしそうになったという。

この番組で、一瞬の笑いのために命を懸ける芸人たちの背中を見て、出川はお笑いという仕事の偉大さを知った。そして、自分自身も本格的に芸人としての道を歩むことにした。

芸のために独身を貫いた

リアクション芸は孤独な道である。汗をかき、鼻水をたらし、体にムチ打ってどんなにがんばっても、その努力自体はなかなか世間には伝わらない。ヨゴレ役を引き受けるにはそれなりの覚悟が要る。世の女性から嫌われても、出川は決してキャラを崩さなかった。イメージを守るために、40歳になるまでは結婚しないと自分の中で密かに縛りを作った。それが原因で、当時交際中だった彼女に振られたこともあったほどだ。

それでも彼は生き方を変えようとはしなかった。「抱かれたくない男」と世間に罵られながらも、出川は頑なにその芸風を貫いた。コツコツと一つの道を突き進んできた出川が、ようやく日の当たる場所で評価されるようになってきた。リアクション芸人として白い目で見られても、うまくトークができなくて芸人たちにイジられても、一途に続けてきた芸がようやく認められたのだ。

出川の大ブレークは昨日今日に始まったことではない。長年にわたってスタッフや視聴者の信頼を積み上げてきた結果、その努力が実を結んだだけなのだ。

作家・お笑い評論家

テレビ番組制作会社勤務を経て作家・お笑い評論家に。テレビ・お笑いに関する取材、執筆、イベント主催など、多岐にわたる活動を行う。主な著書に『松本人志とお笑いとテレビ』(中公新書ラクレ)、『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと『めちゃイケ』の終わり<ポスト平成>のテレビバラエティ論』(イースト新書)、『逆襲する山里亮太』(双葉社)、『なぜ、とんねるずとダウンタウンは仲が悪いと言われるのか?』(コア新書)、『M-1戦国史』(メディアファクトリー新書)がある。マンガ『イロモンガール』(白泉社)では原作を担当した。

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