24年前、タイキシャトルの偉業達成時、1人の名手が流した涙の意味
ほぼ完璧な成績で海外へ
日本時間の今晩、フランスのジャックルマロワ賞(G I)がスタートを切る。JRAで馬券も発売されるこのレースの舞台となるのはドーヴィル競馬場の芝、直線1600メートル。かの国の伝統のG Iだが、これを今から24年前に制したのが、タイキシャトル(美浦・藤沢和雄厩舎)だ。
前年、今でいう3歳でデビューしたタイキシャトルは、デビュー戦の未勝利戦から自己条件、オープンと3連勝。4戦目の菩提樹Sこそ伏兵の逃げ切りを許し2着に敗れたが、それを機に快進撃。続くユニコーンS(GⅢ)で重賞初制覇を飾ると、スワンS(GⅡ)で重賞連勝。その後、マイルチャンピオンシップ(G I)でG I初制覇。更にスプリンターズS(G I)でG I連勝。今でいう4歳の初戦となった京王杯S C(GⅡ)をレコード勝ちすると、続く安田記念(G I)は勝ち時計が1分37秒5というドロドロの馬場の上で2着を2馬身半突き放して圧勝。これを手土産に、フランスへ渡った。
伯楽と名手のタッグで時代を席巻
この名馬の主戦として、ほとんどのレースで鞍上を任されたのが岡部幸雄元騎手(引退)だった。若き日の伯楽・藤沢和雄と名手・岡部幸雄のタッグは、1993年にマイルチャンピオンシップ(G I)を勝ったシンコウラブリイあたりから、G I戦線を席巻した。バブルガムフェローやタイキブリザード、シンボリクリスエスらが該当するが、その代表例がこのタイキシャトルだった。
先述した通りこの時点で10戦9勝2着1回と、ほぼパーフェクトな成績だった栗毛の牡馬。しかし当時は、現在と違い海の向こうでの日本馬の活躍は皆無に等しい時代。これだけの戦績を残した馬でも果たしてどこまでやれるのか?という雰囲気だった。
しかし、そんなムードを吹き飛ばす出来事が、直前に起きた。1週前に行なわれたモーリスドゲスト賞(GI)を、同じく日本から遠征したシーキングザパール(栗東・森秀行厩舎)が快勝。武豊を背に、日本調教馬として史上初めて海外G Iを制して見せたのだ。
日本国内での成績を考えれば、タイキシャトルはシーキングザパールより2枚も3枚も上の存在だった。レースこそ違うとはいえ、シーキングザパールが勝てるなら、タイキシャトルも問題なくパス出来るだろう、という下馬評が、フランスでも一気に広まったのだ。
重い十字架を時代の先駆者が跳ね除ける
理にかなった推測であり、タイキシャトル陣営も「シーキングが勝てるなら……」という自信が湧いたかと思いきや、内情は決してそうではなかった。むしろ、そんなムードは、日本のチャンピオンマイラーの陣営にとってはズシリとのしかかる重い十字架となった感があった。
「日本国内でだって、絶対に勝てるなんてレースはないのが競馬なのに、力関係も流れも違う海外へ挑んで勝てる保証なんてこれっぽっちもない。それなのに勝てるという雰囲気になっていたのは正直嫌な感じでした」
当時、現地でも手綱を任された岡部はそう語っていた。
しかし、そんな嫌な雰囲気を一掃したのもまた、タイキシャトルだった。現地で圧倒的1番人気に推された同馬は、その人気に応え優勝してみせた。初めての海外も、初めての直線のマイル戦も、初めてのヨーロッパの馬達を相手にしての競馬も、彼の絶対的なスピード能力の前には、何の障壁にもならなかった。最後はゆうゆうとゴールし、日本調教馬が1番人気に応えての海外G I制覇を成し遂げたのだ。
再度記すが、これが今から24年前、干支がふた回りも前の話なのだ。いかにタイキシャトルが時代を先取りしていたかが分かるだろう。
涙の本当の理由
さて、この喜ばしい勝利の表彰式の裏で、そっと涙を拭った男がいた事は、意外と知られていない。
その男こそ、岡部幸雄だった。
岡部は表彰式が終わると、人目につかないところで、涙を流し、すぐに拭った。先に記したように陣営にのしかかった大きな重圧をベテランの彼をしても感じていた事もあっただろう。また、これを遡る事3年、同じ藤沢とのコンビで、オーナーも同じ大樹ファームのクロフネミステリーとタイキブリザードがアメリカへ渡ったが、3年連続で返り討ちにあっていた事も関係あっただろう。
しかし、この涙の最も大きな理由と思える出来事が、もう一つあった。
古いファンならご存知かもしれないが、岡部は海外へ挑戦した騎手としては、かなりの先駆者だった。その前には野平祐二(故人)や保田隆芳(故人)がいたが、個人で積極的に何度も海を越えたという意味では、岡部がパイオニアだったかもしれない。その後、頻繁に海外へ挑んだ騎手として知られる武豊はよく、次のように言っていた。
「僕が海外へ行き出した頃、向こうではよく『ユキなら知っている』と、岡部さんの名前が出てきました。格好良いと思ったし、自分もそう言われるようにならないといけないと感じました」
そして、岡部自身からは、次のような話を聞いた事があった。
「当時は海外へ行くと言うと、よく『海外かぶれ』とか『向こうへ行ったところで何がわかる?』とか言われたものです」
そこで、先述したタイキシャトルのオーナーとの逸話になる。当時の大樹ファームの代表は赤澤芳樹氏だった。そして、彼の父はこれもまた馬主だった赤澤胖(ゆたか)氏だった。この胖氏が、岡部の海外遠征を、後押ししてくれていたのだ。多くの人が岡部に対し『海外かぶれ』などと言ういう中、胖氏は『どんどん勉強して来なさい。そのために私でサポート出来る事ならなんでもするから』と、背中を押してくれていたのだ。
タイキシャトルがジャックルマロワ賞を勝つ少し前、胖氏は病気により他界していた。生きている間に恩返しが間に合わなかったという気持ちが、岡部にはあったのだろう。歓喜の輪の中でそっと拭った涙を見た時、そう感じずにはいられなかった。
さて、今年はバスラットレオン(牡4歳、栗東・矢作芳人厩舎)がこのレースに出走する。果たして今回はどんなドラマが待っているだろう。勝ち負けはともかく、約四半世紀前の暑いノルマンディーで見た光景に、負けない素晴らしいシーンが見られる事を期待したい。
(文中一部敬称略、写真撮影=平松さとし)