辞任続出の「副大臣・政務官」って何? 54人も必要?
岸田文雄内閣の各種世論調査の支持率が振るいません。さまざまな要因のなか、失望を買っている大きな理由が「副大臣・大臣政務官(以下「政務官」)」の相次ぐ不祥事に基づく辞任。任命前にしっかりと「身体検査」したのかなど任命責任を問う声も。
ところで「大臣」(国務大臣)はわかるとして副大臣や政務官とは何なのか。結構たくさん(54人)いるようだけど何でさほどに任じられているのかなどを改めて紹介します。
行政権の主語はあくまで「内閣」で「総理大臣」でない
副大臣や政務官を理解するには、その上長である「国務大臣」とは何かを押さえておく必要があります。迂遠なようで恐縮ですが「急がば回れ」をお許し下さい。
「司法」「立法」「行政」のうち憲法は「行政権は、内閣に属する」とし、メンバーたる国務大臣を「内閣総理大臣(首相)」が任命すると定めます。しばしば「首相の大権」と評される衆議院の解散権も憲法上の主語はあくまで「内閣」(7条と69条)です。現在の人数は首相1人+国務大臣19人=20人。
「立法」は衆議院と参議院の役割。「内閣」は両院に首相を代表とした法案を提出したり予算案を提出します。
内閣の意思決定は「閣議によるものとする」(内閣法)。閣議とは20人による話し合いで「国会に対し連帯して責任を負う」(同)ため全員一致が原則です。
ただし憲法は首相に国務大臣の任免権を与えているため首相が強く望む法案などを反対する国務大臣がいたら罷免して賛成する者へ差し替えたり自ら兼務可能。解散も同じ。ここが首相と国務大臣の決定的な権力差となります。
言い換えると罷免されない限り、国務大臣は自由に閣議で意見を述べられるし、まとまらないと行政権は行使できないのです。
閣議のメンバーにはなれない
副大臣は上記「国務大臣」の下に位置します。2001年に創設された比較的最近の官職(行政府の職務)で定数26人。法律で必ず置くと決まっています。
役割は大臣の補佐。大臣から「この仕事をやってくれ」と命じられたら担当します。国会で大臣に代わって答弁も許されます。究極は病気などの理由で「私の代わりに大臣の仕事をやってくれ」で代行して職務を果たす権限を持つ点。ただし大臣自体ではないので前述の「閣議」のメンバーにはなれません。
政務官も副大臣と同時に01年創設の官職で定数28人。国務大臣を補佐する役割は副大臣と同じでも、国務大臣から「うちの省のこの政策を担ってくれ」と守備範囲が決められるのが異なります。副大臣にある代行権も持たないのです。
実質的な任命権が首相にある経緯
副大臣と政務官は内閣府の場合は首相の申出で、他の省は長である国務大臣の申出により、いずれも「内閣」が行う決まりです。
つまり○○省の副大臣・政務官は首相でなく○○省大臣の意向が反映される可能性はあるのですが、実質的にはほぼ首相の任命と同義となります。あるとしたら今回のように個人が辞任した後釜選びぐらい。
というのも上司にあたる国務大臣そのものが首相によって一斉に選ばれるケースばかりだから。
首相が欠けた(「辞任した」など)
イコール内閣総辞職で副大臣・政務官も一蓮托生。後継者が新たに一から選出
総選挙後
現首相の与党勝利ならば続投する可能性が高いとはいえ憲法の規定でいったん総辞職する。だから同一人物の首相であっても一から選出する
内閣改造
首相の任免権が駆使されるケース。結果的に小幅であったにせよ首相の意向が最大限尊重される
ゆえに一連の辞任騒動で岸田首相が「任命責任を重く受け止める」とするのは当然です。
25歳で官僚トップより上位になれる
現職の副大臣と政務官は全員国会議員(立法府)。それが行政府の役職をも兼務する形になります。首相を除く国務大臣19人+副大臣26人+政務官28人=73人が該当するのです。
府省における地位は極めて高い。一般にキャリア官僚のトップが事務次官(1人)で、政務官はその上。さらに副大臣がその上となるのです。
事務次官は狭き門である国家公務員総合職試験をパスした通称「キャリア」のうち同期か上下2期で1人選ばれるかどうかという頂点。他方、政務官は衆院当選1回、参院2回(1回の場合も)が就くのが通例となっています。
衆議院議員の被選挙権は満25歳以上だから、この年齢で官僚トップより上位の待遇を与えられる可能性が生じるのです。25歳といえば大卒キャリアでも3年目のペーペー。与党の国会議員になるとはそれほどの大事といえます。
「ご説明」と人脈と
このインパクトから、いかなる学歴・職歴を経ていても2度目の選挙では経歴欄の筆頭に「政務官」と書くのが普通です。
単に偉いだけではなく情報も集まります。毎日のように幹部級以上が資料を携えて「政務官様」への「ご説明」が続くので。霞ヶ関は日本最大のシンクタンクで、その精鋭が「ご理解」いただくためせっせと訪れます。その過程で所属する官庁幹部らへの人脈も自然と生じるメリットも見逃せません。
副大臣はキャリアに欠かせない「登竜門」
副大臣はさらにパワーアップ。端的にいえば大臣の代役で国会答弁を担ったり、各省が主催や後援に名を連ねているイベントなど(たくさんある)のスピーチや表彰状の代読といった仕事も多々。もっとも国会答弁は質問する野党側が望むのもあって大半が大臣ですが。
最大の担務たる職務代行のうち、国務大臣が任を果たせない状態に陥った場合は首相が速やかに後任を選ぶので短期に止まるのに対して療養中や外遊などで不在といった状況では比較的長めになります。
衆院当選4回、参院2回が適齢期。大臣の適齢期が衆院当選6回、参院5回あたりだからキャリアに欠かせない「登竜門」。ここに国会の役職(理事や委員長)、自民党内の役職(部会長や派閥の役職)を挟んで出世コースが築かれるのです。
実質的創設者は小沢一郎氏
にしても。大臣はともかく副大臣や政務官といった「登竜門」に計54人も必要かとは誰でも思うところ。組閣は改造も含めると約年1回。先の総選挙で自民初当選組は33人なので政務官を2回入れ替えたら全員就任できる勘定です。身体検査も何もあったものではないと。
同制度は1999年の小渕恵三政権の時に導入が決まりました。最大の理由は小沢一郎党首率いる自由党と自民党が連立(自自連立)したから。小沢氏年来の主張を飲んだ形です。
小沢氏の著作『日本改造計画』(93年刊 講談社)によると、これまでの官僚主導を打破するために「閣僚を含めて与党議員のうち150~160人程度が政府に入」って「官庁も政治家主導」にするというもの。その具現化がはかられました。言ってみれば小沢氏が創設者。
自由党は後に分裂して小沢氏は政府を去るも制度は維持され01年からスタート。実質的立役者が消えたせいか若干形骸化を呈すも、その小沢氏が幹事長へ君臨する民主党が09年に政権を奪取するや「本格運用」が始まりました。国務大臣・副大臣・政務官を「政務三役会議」のメンバーとして構成し、ここでの決定事項が閣議に提出されるようになったのです。
箔つけと化し本来の目的に値しない制度
民主党政権瓦解後に成立した第2次安倍晋三政権以降は「政務三役会議」だけでの意思決定が行きすぎた官僚排除と行政停滞を招いたと批判して廃止。ただ役職は残したので今でも「政務三役」という言葉は残っています。
実態が与党議員の箔つけと化し、重要政策の決定権(=閣議出席)を持たない役職だから、派閥連合体の自民党トップが派の意向を汲んで順送りに任命していけば誰でもなれるし誰も悲しまない。結果として玉石混交は免れず「石」が見つかっては辞任騒動続出というのが近年の傾向です。
もはや官主導から政治主導へという目的に値しない制度であれば見直されてもいいはずですが、ポスト減となる改革を主導しようという動きは今のところ与党からみられません。