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豊臣秀吉の晩年に誕生した、五大老と五奉行の呼称をめぐる論争とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:アフロ)

 近年では会社の役職が横文字になるなど、わかりづらくなってきた。ところで、豊臣秀吉の晩年に誕生した五大老と五奉行については、呼称をめぐって論争になったので、紹介することにしよう。

 当初の五大老のメンバーは、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景だった。小早川隆景が没すると、上杉景勝が代わりに五大老になった。その後、前田利家が死去すると、嫡男の利長が跡を継いで加わったのである。

 五奉行のメンバーは、前田玄以、浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家である。五大老や五奉行が設置された理由は、豊臣秀吉の死去に伴って、後継者の幼かった子の秀頼をサポートするためだった。

 かつては、格上の五大老が豊臣政権の意思決定を行い、格下の五奉行がその下で実務を担当したと考えられていた。五大老は数十万石の大名なので格上、五奉行は十数万石程度の大名なので格下、という考え方は自然なものだったのかもしれない。

 ところが、今では五大老が格上で五奉行が格下という見解に異議が唱えられている。五大老、五奉行という呼称は、江戸時代以降に用いられた一般的な名称に過ぎない。当時、五大老は「奉行」、五奉行は「年寄」と呼ばれていたと指摘したのは、阿部勝則氏である。

 「年寄」は「宿老」とも称され、大名家の重臣に相当したが、「奉行」は上位者の命令を執行する立場にあった。「年寄」のほうが、「奉行」よりも高い存在だった。阿部氏の指摘に従えば、五大老と五奉行の立場が逆転することになる。

 堀越祐一氏は五奉行を「年寄」とする史料が存在する一方、あるときは「奉行」とする史料も数多く確認できるという事実を指摘した。したがって、阿部氏の指摘は必ずしも正しいとは言えなくなったが、彼らはどのような場面で「年寄」あるいは「奉行」と呼ばれたのだろうか。

 五奉行ーは、五大老のことを「奉行」と呼ぶ一方で、自分たちのことを「奉行」と呼ばず、「年寄」と呼んでいた。逆に、五大老は自らを「奉行」と呼ばず、五奉行のことを「奉行」と呼んで、決して「年寄」と呼ばなかった。

 五大老は五奉行を「年寄」と認めず、自分たちが「奉行」とは思いもしなかった。五大老にとって五奉行は、格下の存在という認識だったのである。

 一方、五奉行は自らを「年寄」であると自認し、五大老を格下の「奉行」と呼んだ。その理由は、五奉行が豊臣家の重臣たる「年寄」であることを自認し、五大老は秀頼に仕える「奉行」に過ぎないことを知らしめたかったからだろう。

 「年寄」あるいは「奉行」という呼称は、それぞれの政治的な立場を自認して用いられたと指摘されている。なお、五大老と五奉行の役割については、改めて取り上げることにしよう。

主要参考文献

阿部勝則「豊臣五大老・五奉行についての一考察」(『史苑』49巻2号、1989年)

堀越祐一『豊臣政権の権力構造』(吉川弘文館、2016年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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