【京都】宇治市 坂上田村麻呂も天武天皇も参拝した勝運のご利益がある『許波多神社』の「杉」印はどこ?♪
京都の山科にある「中臣遺跡」を通り、明智光秀が殺されたという「明智藪」などがある伏見をすぎると宇治市の木幡という地域に出ます。
中臣遺跡についての過去記事をご参照ください→
・「中臣遺跡」と呼ばれるエリアにある『二之宮(中臣神社)』には出世の神様がご鎮座!
・『中臣遺跡』で2万5千年前からの歴史ロマンを感じる!
・平安時代の武将『坂上田村麻呂』の遺跡巡りをしながら歴史ロマンに浸る♪
そこには、以前からとっても気になっていた『許波多神社』があります。
天忍穂耳命、瓊々杵尊、神日本磐余彦尊(神武天皇)を祀られており、『柳大明神』としても地元の方々からは親しまれています。
前の道は細く、境内も外からはよく見えないのですが、中に入り由緒書きを読みながら宮司さんにお話をお聞きすると歴史の深さにびっくりしました♪
大海人皇子(後の天武天皇)や坂上田村麻呂が戦勝を祈願したと伝えられ、勝運のご利益がある神社として信仰されています。
天武天皇と坂上田村麻呂さん、中臣鎌足にお呼ばれしてご縁をいただいた!と思いました…汗
社伝によれば、大化元年(645年)に皇極天皇の夢に「吾天神故に下土に神陵なし、吾が霊を祭祀し給へ」とのお告げがあり、中臣鎌足に孝徳天皇が命じて、皇祖を祀る神殿を山背国菟道郡許畑(やましろのくにうじぐんこはた)、柳山(やなぎやま)に造営させたのに始まると伝えられます。
いまある「許波多神社」は元々お旅所だったところで、遷座前の許波多神社は、創建の地であった柳山(現在の宇治市黄檗公園辺り)にあったそう。
明治時代、陸軍宇治火薬製造所の建設のため社地全体が官有地として召し上げられ今のお旅所があった場所に移られたそうです。
確かに、その痕跡は残されていました。社地全体が官有地となり火薬製造所とされ、今では黄檗公園になって老若男女問わず、多くの人が楽しめる場所になってます。
体育館前には式内「許波多神社旧跡石碑」と由緒書きが残されています。
織田信長と足利義昭の「槙島城の戦い」の際に織田信長の陣地となった場所とありますね!
671年、壬申の乱(672)を前に、大海人皇子(天武天皇)が大津宮から吉野に向かう際に、社頭に柳の枝を挿し「我に天位を践まば、この柳、芽を出すべし」と戦勝を祈願したと伝わることから柳をあちこちに見ることができますよ。
まずは、拝殿です。拝殿の中に特別に入れてくださいました!
柳が見えますね!その両隣は馬さんでした。
そして、屋根のところにも!
平成に重要文化財なので、屋根や社殿を綺麗に直されたとのことでした。それにしても柳があちこちに見られるのはさすが、「柳大明神」です!
許波多神社に秘められた伝説は多々残されているそうです!
御神木の瘤は、さすると御利益をいただけます。「がん封じ」他体全体の病を癒すのだそうです。
立派な馬の像がありますが、ここは「競馬発祥の神社」として有名なのだそう!馬場道で競馬(くらべうま)の神事が行われていたと伝わります。平安時代の鐙(あぶみ)は重要文化財に指定され、社宝として大切に保管されているそうですよ。
許波多神社の御神体は、平安時代後期の作とされる男女一対(馬頭天王・弁財天)の神像と伝わります。以前、特別公開をされたそうですが今では静かに大切に保管されているとのこと。現在、本殿には鎌倉時代の作とされる天忍穂耳命の神像が御鎮座されてます。
御祭神である「正勝吾勝々速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)」は「天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)」とも呼ばれ、『古事記』では、誓約神話と天孫降臨神話の場面に登場し、系譜上、天照大御神の子にして天孫であった邇々芸命(ににひのみこと)の親という重要な位置にある神様。
名前の中に「勝つ」が続くことから、スポーツ選手らの信者も多いそうですよ!
この神様の名前をどこかで見たことがあると思ったら、私が愛してやまない天狗さんがいっぱいいらっしゃる滋賀東近江にある「太郎坊 阿賀神社」さんの御祭神が「正勝吾勝々速日天之忍穂耳命」でした!修験道と習合した神社でお祀りされていることが多いそうです。なるほど、修験されている方の姿は天狗さんそのものですね!しかし、宮司さんに確認したところ、「許波多神社」には直接天狗さんは関係ないそう…
梅の花が美しく咲く境内には、とっても深い神様との歴史が刻まれてました。この近辺には「許波多神社」の史跡がところどころに残されています。
ぜひこの機会に足を運ばれて史跡巡りも楽しまれてください〜♪
許波多神社(五ヶ庄本宮)
京都府宇治市五ヶ庄古川13