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石田三成は徳川家康に挙兵する際、あえて二段階に分けて決起したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、石田三成が徳川家康に対して挙兵したが、それは一発で決まったのではなく、二段階に分かれていたという説がある。大変ユニークな説であるが、妥当性があるのか検討しよう。

 関ヶ原合戦について、近年注目すべき説としては、西軍の二段階決起説がある。第一段階では、まず石田三成と大谷吉継が反家康闘争を行い、三奉行(増田長盛、長束正家、前田玄以)はむしろ反対の立場を取っていたという。

 その後、第二段階として三成と吉継は三奉行および淀殿を説得し、さらに安国寺恵瓊が西軍に引き込むことで、家康への挙兵を行ったと指摘する。

 慶長5年(1600)7月12日の時点で、長盛は永井直勝(家康の家臣)に対して、三成らの不穏な動きを報じた。「内府ちかひの条々」は、その5日後に発せられたので、その間に三成らが三奉行に挙兵に応じるよう説得工作を行ったと考えることも可能である。

 同じ7月12日には、三奉行が毛利輝元に書状を送り、大坂の仕置について御意(秀頼の承認)を得たので、早々に大坂に来てほしいと依頼した(『松井家譜』所収文書)。その取次が恵瓊である。

 7月15日、三奉行の依頼を受けた輝元は、加藤清正に大坂へ来てほしいと要請した(『松井家譜』所収文書)。同日、島津惟新(義弘)は上杉景勝に書状を送り、輝元、宇喜多秀家のほか、小西行長、三成、吉継が挙兵することを知らせ、その上で三成らに味方してほしいと要請したのである。

 7月13日、宍戸基次ら輝元の三人の家臣は、家康配下の榊原康政らに書状を送り、恵瓊、三成、吉継の件について、輝元は関与していないと報告した(『吉川家文書』)。

 7月14日、広家も同趣旨の書状を榊原康政に送った(『吉川家文書』)。輝元は反家康派だったので、恵瓊とともに三成に与同したが、毛利家中では意思統一ができておらず、輝元の真意もわからなかったので、急ぎ弁明した可能性もある。

 7月27日、榊原康政は秋田実季に書状を送り、上方で三成と吉継が挙兵したという報告があり、大坂から三奉行、淀殿、前田利長が早々の家康の帰洛を要請してきたので、三成ら謀反の衆を討伐する旨を知らせた(『譜牒余録』)。

 この書状によると、三奉行は三成らに与同していないようにも読める。しかし、この時点で「内府ちかひの条々」の内容は、家康も知っていたはずなので、理解に苦しむところである。

 「小山評定」の件にも関わってくるが、「小山評定」ではあくまで三成らの謀反だけが伝わり、その対処として会津征討を中断し、上洛することを決定した。その後、三奉行らが加担したことを知り、家康が大変驚いたというのが真相だろう。

 その証拠に、7月29日付の家康が黒田長政に宛てた書状には、「大坂奉行衆、別心の由」、「重ねて相談せしむべし」と書かれている(「黒田家文書」)。つまり、「小山評定」で三成らの謀反を知ったので討伐を決定したが、その後、三奉行の別心を知って、長政に相談したいというのだ。

 残っている史料を時系列に検討すると、三成らの決起に至る経過は矛盾だらけのように思える。ただ、三成らが政権の中枢にいる三奉行を説得しないまま、挙兵を見切り発車で実行に移すとは、現実問題として考えにくい。

 三成の決起は二段階で行われたのか、あるいは三奉行らによる情報操作のなせる業だったのか?あるいは三成らの決起が先に伝わり、あとで三奉行らの決起を家康が知ったのか、今後さらに検討を要しよう。

主要参考文献

渡邊大門『関ケ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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