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織田信長の先祖は平氏ではなく、源平交代思想も疑わしい

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長(提供:アフロ)

 過日のニュースでは、織田信長ゆかりの劔神社(福井県越前町)を紹介していた。こちら。ところで、一般的に言えば、いまだに信長の先祖は平氏と考えられているようなので、その辺りを検討してみよう。

 織田家の系図(『続群書類従』第六輯・上、『系図纂要』など)によると、織田家の先祖は平資盛(重盛の次男)になっている。その概要は、以下のとおりである。

 元暦2年(1185)の壇ノ浦の戦いで、平資盛(重盛)が亡くなった。資盛には寵妾との間に親真という子をもうけていた。あるとき、越前織田荘(福井県越前町)の神官が親真のもとを訪れ、養子としてもらい受けた。その後、親真は神職を継ぎ、織田家の祖となったという。

 僧侶の兎庵の紀行文『美濃路紀行』には、天正元年(1573)9月に岐阜を訪れた記事がある。そこには信長の家系について、資盛が先祖であると書いている。この記述内容から、信長が足利義昭を追放した時点において、織田家の祖が平氏だったという説が広まっていたことがわかる。

 これは、信長がわざと流したものなのか不明だが、現段階で信長の先祖が平氏だったという説は、単なる噂に過ぎないと考えられている。つまり、信長の先祖が平氏であったという説は、疑わしいといえようだ。

 信長の先祖は七条院領織田荘(福井県越前町)の荘官であり、同荘内の織田劔神社の神官だったという説がある。劔神社は敦賀郡伊部郷に所在したので(『和名類従抄』郷里部)、織田氏の本姓は忌部氏であると指摘されている。

 伊部は「忌部」に同じことで、織田の社司は忌部氏だったといわれている。しかし、現在、残っている史料によると、織田氏の本姓は藤原氏だったことが明らかである(「加藤文書」など)。実に、ややこしい。

 信長は途中から平姓を用いたが、その理由を明確に示した史料はない。かつて、信長が藤原姓から平姓に改姓したのは、源平交代思想を利用するためだったという説が唱えられたことがある。

 源平交代思想とは、源氏と平家が交代して政権を担うという思想だ。鎌倉時代の政権は将軍家の源氏から執権の北条氏(平氏)に変わり、南北朝時代の政権は北条氏(平氏)から将軍家の足利氏(源氏)に変わった。

 つまり、信長が主宰する政権は、将軍家の足利氏(源氏)から織田氏(平氏)に政権が変わるという発想だった。信長は天下統一を進める過程において、源平交代思想に基づき源氏の室町幕府の足利将軍に代わるため、あえて平姓に改姓したということになろう。

 しかし、当時の人々が源平交代思想を本当に信じていたのか疑わしく、後世になって創作されたとまでいわれている。したがって、現時点で、源平交代思想には懐疑的な意見が多い。

 なお、明智光秀が本能寺の変で信長を討ったのは、源氏である光秀(土岐明智氏は源氏)が世を乱す平姓将軍(信長)の出現を阻むためだったという説があるが、まったくの事実無根である。

主要参考文献

谷口克広『尾張・織田一族』(新人物往来社、2008年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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