天気予報が復活した8月22日は黒星
太平洋戦争が始まり、国防上の理由から、天気予報が国民に知らされなくなってから約3年8ヶ月後、終戦からは一週間後の8月22日に天気予報が復活しています。
ラジオから流れる天気予報は戦争が終わったという安心感を与えた
昭和20年8月21日昼すぎ,陸海軍大臣並びに運輸大臣から気象報道管制解除の文書が中央気象台(現在の気象庁)に届きます。これを受け、藤原咲平台長は、天気予報の放送のため飛びまわります。21日夕刻、藤原台長は日本放送協会(NHK)の大橋八郎会長を訪ね、明日からの番組編成を変更して天気予報を放送してくれという要請をしています。準備不足であろうとなかろうと、一刻も早く戦争が終わったという実感を持ちたかった、あるいは、多くの人に実感を持たせたかったのかもしれません。NHK側では、この無茶な要請を受け入れ、22日12時のニュースに続いて、次のような東京地方の天気予報を放送しています。この天気予報は、22日6時の天気図をもとにした予報でした。
「東京地方、きょうは天気が変わりやすく、午後から夜にかけて時々雨が降る見込み」
久しぶりにラジオから流れる天気予報のアナウンスは、いかにも戦争が終わったという安心感を国民に与えたといいます。しかし、東京地方は天気予報と違い、房総半島に上陸した台風によって暴風雨となり、天気予報復活の日は黒星となっています。
観測資料の乏しい中での天気予報の復活
天気予報復活の日の黒星の原因は、観測資料が乏しい中での予報ということにつきます。太平洋戦争により、多くの気象官署が被害を受けていましたが、8月15日の終戦の日までは、100ヶ所以上の気象官署での観測が集められて天気図が作られ、軍事目的のために天気予報が行われていました。しかし、終戦後の大混乱のために通信事情が極端に悪くなり、観測が行われていても10ヶ所程度しか天気図には観測が記入されなくなっています。タイトル画像の天気図のように、等圧線も十分に引けない状態での天気図を使っての予報発表でした。このため、房総半島の南東海上にあった台風には全く気がついていなかったのです。30年以上前に、高橋浩一郎第5代気象庁長官から当時の予報作業の様子を記述した、次のようなお手紙をいただきました。
「あとになって、八丈島の天気がおかしかったのは、付近に台風があったのだなあということが推測できた程度であった。」
昭和20年8月22日18時の天気図
天気予報に用いた天気図には、観測資料が記入されなかったといっても、各地では気象観測が行われていました。当時は1日6枚の天気図(2時、6時、10時、14時、18時、22時の天気図)が作られていたのですが、このうち、6時と18時の天気図については、後日集められた観測資料をもとに再解析が行われています。それによると、22日18時には、房総半島の南東海上に中心気圧が985hPaの小型の台風があり、天気予報復活の日に関東地方に大荒れの天気をもたらしました。また、この天気図には、沖縄の南海上に中心気圧が985hPa以下という大型の台風があります。この台風により、連合軍の日本進駐のスケジュールがすべて2日延期となり、降伏文書の調印も8月31日から9月2日に延期となっています。
戦後初めて天気予報を発表した日の様子
和達清夫初代気象庁長官は、昭和26年8月27日の毎日新聞に、戦後初めて天気予報を発表した日の様子について、次のような文を寄せています。
天気予報が外れたとしても国民に知らせる時代は、天気予報を国民に知らされなかった時代よりも良い時代と思います。そして、各国が協力して気象観測を行い、その観測結果をお互いに交換し、それをもとに天気予報ができる平和な時代は、さらに良い時代と思います。
図の出典:饒村曜(1986)、台風物語、日本気象協会。