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大河ドラマであまりメインに据えられない信長 「景気のいい話」にならない奇妙な符合

堀井憲一郎コラムニスト
織田信長像(写真:ペイレスイメージズ/アフロイメージマート)

大河ドラマで織田信長だけが主人公なのは1本だけ

NHK大河ドラマでは、じつは織田信長を主人公にしたものが少ない。

意外な感に打たれるが、信長単体で主人公だったのは1992年緒形直人の『信長 KING OF ZIPANGU』だけである。

それより前、1973年の『国盗り物語』は前半が斎藤道三(平幹二朗)、後半が信長(高橋英樹)となっていたので、後半部分の主人公ではあった。この半分ものを入れても2本でしかない。

意外に少ない。

とはいえ、秀吉や家康の主人公ものも、多いわけではない。

秀吉だと1965年の緒形拳の『太閤記』、1996年の竹中直人の『秀吉』の2本。

家康も1983年滝田栄の『徳川家康』、2000年津川雅彦の『葵 徳川三代』の2本である。葵徳川三代では、49話中32話めで家康は死んで、そのあと秀忠の物語になるが、全体の三分の二は家康が主人公だった。

それぞれ2本ずつである。

前田利家や黒田官兵衛を主人公にした「裏・秀吉もの」

ただ、これは主人公に据えられたものに限った場合、である。

まいどまいど、秀吉や家康をメインにしてるわけにはいかないので、周辺の人物を主人公に仕立て、物語は秀吉や家康の動きで展開していくという、いわば「裏・秀吉もの」や「裏・家康もの」(秀吉もの・家康ものの変種)も多く作られている。

「裏・秀吉もの」としてわかりやすいのは1981年佐久間良子の『おんな太閤記』である(秀吉は西田敏行)。

主人公は秀吉の妻のねね。秀吉の人生が丁寧に描かれたドラマであった。

ただご存知のように、彼女は家康よりも長生きしたので、秀吉死後の世界もきちんと描かれていた。

あと「裏・秀吉もの」としては、2002年『利家とまつ』、2006年『功名が辻』、2014『軍師官兵衛』あたりがそれになるだろう。

それぞれ主人公は、秀吉の同僚である前田利家、秀吉傘下の山内一豊、黒田官兵衛である。三人とも秀吉より長生きするし、江戸時代に大きな大名家になる祖であるが、人生を通して秀吉との関係が深い。

また1978年の『黄金の日々』の主人公は商人・呂宋(るそん)助左衛門で、商人から見た織豊時代が描かれている。なかでも秀吉がメインキャラで、後半は主人公の自由を弾圧する権力者として描かれ「裏・秀吉の物語」でありながら、また「反・秀吉の物語」として見ることができる。

『天地人』や『真田丸』は「反・家康もの」である

家康も同様で、1971年の『春の坂道』、1989年の『春日局』は、それぞれ柳生宗矩、春日局が主人公であり(この二人はほぼ同時代の人)、家康から秀忠・家光にかけての徳川幕府創設期を描いている。『葵 徳川三代』と同じ時代をあつかっていて、やはり中心は家康の物語になる。

2017年『おんな城主 直虎』も家康を支える徳川四天王の一人・井伊氏につながる話なので、「裏・家康もの」だったと言えるだろう。

2009年『天地人』の主人公・直江兼続と、2016年『真田丸』の主人公・真田信繁(幸村)は、ともに秀吉なきあとに徳川家康を倒そうとした男の話であり、「反・家康もの」として家康を描いたドラマだともいえる。

また、2011年『江 ~姫たちの戦国~』のお江(ごう)は、「“信長の姪”であり、“秀吉の側室(茶々)の妹”であり、“家康の息子の秀忠の正室”」という、並べてみるとわりとすごい女性なので、この三英傑がそれぞれ描かれていた。秀吉がおもに描かれていたが、しかし、そのあと徳川家を支えていく部分も大事だったので、「裏・秀吉もの&家康もの」だったと言えるだろう。

つまり、秀吉と家康がほぼ主人公として描かれた大河ドラマは、見方によっては7、8本あったとも言えるのだ。

『麒麟がくる』が大河初の「裏・信長もの」

ところが「裏・信長もの」は見当たらない。

もちろん信長は戦国時代ものにはだいたい登場してくるのだが、あまり主人公や“ほぼ主人公”扱いにはならない。

それは本能寺で死んでしまうからだろう。

ちょっと死ぬのが早いのだ。

信長によって戦国動乱の世は収束にむかいつつあったところ、突然そのトップが斃されて、日本史ドラマとしては、さて、ここからがおもしろいところだが、残念ながらお時間となりました、続きはまた、と講釈師がよく見せるような展開になってしまう。気を持たせるだけ持たせて、最後まで喋ってくれない感じなのだ。

やはり、この権力争いはどう決着がつくのか、その結末まで見たい、とおもうのはしかたがない。勢い、信長は選ばれにくい。

それでも敢えて今年は明智光秀を主人公にして「裏・信長もの」として2020年『麒麟がくる』が放送されている。

初の「裏・信長もの」である。

織田信長が死ぬのが1582年(天正10年)6月1日深夜(いまどきの日付でいえば6月2日未明)であり、明智光秀はそれからわずか十日余り、同年同月、6月13日夜に殺されてしまう(14日未明かもしれないが誰もきちんと伝えてないので詳しくはわからない)。

信長の死からわずか12日で(13日目に)光秀も死んでしまう。

ことしの大河ドラマはそこで終わるはずである。

ただ、信長ものと違い、「本能寺の変のあとの12日間」が濃く描かれるとはおもう。

これまでのドラマでは、本能寺の変のあとは、どうしても「秀吉の視点」に入れ替わってしまい「光秀は信長を殺して、それからどうするつもりだったのか」はあまり説明されなかった。信長は殺され、続いて光秀も死んだので、では次に行きます、という展開が多かった。

そこを今年は少しは深く描かれるだろう。

とはいえ全国統一の途中で終わってしまう。それはそれでしかたがない。

ほとんどの人は自分でいつ死ぬかを選べない。突然、おもいもよらないときに死に捕まってしまうことが多い。

今年の大河は、そういう「途中で終わっちゃうお話」だとおもって見ていくしかない。

『国盗り物語』の1973年と『麒麟がくる』の2020年の奇妙な符合

ふとおもいだしたのだが(あまりいい類推ではないのだが)、信長が半分主人公だった『国盗り物語』が放映された1973年というのは、秋に中東戦争が起こり(イスラエルとアラブ諸国が戦って初めてイスラエルが劣勢になった)石油価格が高騰、いわゆるオイルショックが起こった年である。

この秋、トイレットペーパーが商店から消えた。

まさかの2020年、主人公ではないが、でも後半は信長の人生をそのままトレースすることになりそうな裏信長ものの『麒麟がくる』が放映されているおりに、トイレットペーパーが店から消えた。いやな符合である。

でも、『信長 KING OF ZIPANGU』が放送された1992年は、トイレットペーパーが消えることはなかったので、あまり気にするほどのものではないだろう。

1992年は前年から始まったバブル経済の崩壊が止まらず、1973年はオイルショックから不景気へと突入していった年ではあるので、大河で“信長もの”が放送されると、あまり「景気のいい年」にはなってないのはたしかであるのだが。

『麒麟がくる』は明智光秀の物語であり、信長とは違う世界構想が中心に打ち出されれば、いくら「裏・信長もの」だとは言っても、信長ものそのものではなく、あくまで明智光秀の物語にすぎない。きちんと独自の光秀の物語が展開されれば、奇妙な符合は杞憂におわるはずだ、とはおもっている。

長谷川博己のかつてない光秀像に期待している。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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