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石田三成は、文禄・慶長の役で対立した加藤光泰を毒殺したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石田三成。(提供:イメージマート)

 今回の「どうする家康」では、石田三成が徳川家康と会う場面があった。三成は豊臣秀吉の腹心だったが、その立場を利用して、諸大名に数々の嫌がらせを行ったとされる。なかには、加藤光泰のように毒殺された者もいたというが、それが事実なのか考えることにしよう。

 加藤光泰(1537~1593)は、もともと美濃斎藤氏に仕えていたが、その没落後は織田信長の配下となった。

 天正10年(1582)6月の本能寺の変で信長が横死すると、豊臣秀吉に仕えた。以後、秀吉の命を受けて各地を転戦し、天正18年(1590)の北条氏の滅亡後は、甲斐国に24万石を与えられた。

 文禄元年(1592)に文禄の役が起こると、光泰は朝鮮に出兵した。出陣中の光泰は、留守を守っていた養子の光吉と密に連絡を取り、領内の支配についてアドバイスを行っていた。

 しかし、朝鮮での戦いにおいて、三成と確執が生じたといわれている。実は、三成と確執が生じた武将は、光泰だけではなかった。三成はトラブルメーカーだったので、秀吉の死後は諸将から大きな反発を受けた(慶長4年閏3月の石田三成訴訟事件)。

 翌年、光泰は日本へ帰国することになり、朝鮮の西生浦で宮部長房から饗応を受けた。その直後、光泰は急病により、そのまま亡くなったのである。

 光泰の死は病死などではなく、三成の意を受けた宮部長房による毒殺であるといわれており、信憑性が高いと評価して支持する研究者も存在する。

 とはいえ、三成の陰謀説については、いくつか疑問が提示されている。異国の地である朝鮮では、食事や水が合わず、病に伏せる武将も少なくなく、なかには病没する者もあった。

 光泰は戦闘で負傷しており、その傷がもとで亡くなったという説もある。毒殺のほうがおもしろいのであるが、いささか説得性に欠けるように思える。

 三成陰謀説が広まった背景には、光泰死後の加藤家の措置にもあった。後継者の作十郎(貞泰)は遺領相続を認められず、文禄4年(1595)に美濃黒野城(岐阜市)へ4万石の減封となった。約20万石も減らされたのだから、かなり大幅である。

 こうした手厳しい措置は、背後に三成の姿があったのではないかと考えられている。しかし、当時の貞泰はまだ16歳であり、このような措置はあり得たのかもしれない。また、加藤家が取り潰されていないので、酷い扱いとも思えない。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、貞泰は西軍を裏切って東軍に転じた。その理由は、三成への遺恨があったのではないかとの指摘もある。

 ただ、家の命運が掛かった戦いにおいて、過去の遺恨だけで西軍を裏切るだろうか。それは、貞泰が東西両軍の情勢を分析し、その結果として「東軍有利」との判断を下したものであろう。

 ややもすれば、三成は虎の威を借りる狐のごとく振舞い、ときに敵対勢力を暗殺したなどの噂が流れるが、決して確かな史料に書かれたものではない。光泰の場合でも、そんなに憎ければ、なぜ加藤家を改易にしなかったのか。その点には、注意すべきであろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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