『落下の解剖学』。判決にスッキリせずモヤモヤする、異色の裁判映画
裁判映画のクライマックスは最後の判決だ。「有罪!」や「無罪!」で歓喜するか、悲嘆にくれる。
だが、『落下の解剖学』はそうではない。何の感情も爆発しない。むしろ見終わってモヤモヤする。
なぜか?
モヤモヤの理由は3つある。
①主人公に感情移入できない
主人公は冷たく無表情な女として描かれている。息子に対してすらあまり愛情を感じない。裁判映画は普通、主人公に肩入れするように作られているが、本作品は違う。
感情移入できないから、有罪になっても悲しくないし、無罪になってもうれしくないのだ。
これは意図的なものだ。
ジュスティーヌ・トリエ監督は主人公についてこう語っている。
「被害者でもなく、模範的な母親でもなく、魅力的な女でもない。天使ではなく、むしろモンスター的なものを持っている」(『エル・パイス紙』のインタビューより)
モンスターには感情移入できない。
だが、感情移入できないからこそ、鑑賞者は、完全に中立な視点を手にすることができた、と言える。有罪か無罪か最後まで迷い、かつ、どっちになっても深い思い入れがない、職業的な視点=裁判官の視点を手に入れた。
それによって、感動は薄くなってしまったが、その分、謎解きの楽しみは増した。
②判決後もモヤモヤが晴れず
予告編に、こういうやり取りがある。
「私は殺していない」
「そこは重要ではない」
重要なのは、「殺していない事実」ではなく、「殺していないことを他者に信じさせられるか否か」なのだ。
想像してほしい。
※以下、私を使ったたとえ話は映画の結末とは関係ありません。念のため
私は殺していない。そのことは本人である私が一番よく知っている。だが、証人もおらず、アリバイもない。となると、裁判官には信じてもらえないかもしれない。
むろん、「殺していないことを証明できない」=「殺した」ではない。
殺人と判断するには「殺した」証拠が必要だ。
また想像してほしい。
私は白なのだが、白の証拠がない。裁判が進むうちに、私の素行の悪さと被害者との関係の悪さが炙り出されていき、私のイメージは白から灰色になっていく。
最終的には黒の確証がなく、「疑わしきは罰せず」の原則によって無罪判決が出たとする。被害者が死んでいて「死人に口なし」なのも私に有利に働いた。
だが、世間の目は私を灰色と見なし続けるに違いない。私は白なのに、判決も白になったのに、だ。
また、この真逆もあるだろう。
私は黒なのに、死人に口なしと目撃者不在で確証が出てこず、私は「疑わしきは罰せず」で灰色のまま無罪になる、ということももちろん起こり得る。
つまり、判決が真実の反映だとは限らない。よって、モヤモヤする。
※この作品のオフィシャルサイトはよくできている。特に、作品の魅力を過不足なく伝えている「イントロ」は必読
③解剖された男女のドロドロ
「解剖」によって切り刻まれ仕分けされることで、見えてくるのは、主人公と死んだ夫の関係である。こっちの方が有罪・無罪の行方よりも面白く、主題はこちらではないか。
美しい大自然の中の邸宅に住む作家同士のカップル。一見、エコロジカルで持続可能で知的でクリエイティブでハイクラスでゴージャスである。
だが、一皮剥くと……。
また監督の言葉に耳を傾けたい。
「作品の中のカップルは予定よりもありふれた、恥ずべきものになったけど、本当のことを言えばもっと恐ろしいものにしたかった」、「正直言って、うまくいっているカップルは珍しく、大部分は地獄。私はその地獄の中に分け入りたかった」(引用元は前出)
この人、露悪的なまでの残酷なリアリストである。夢を追う理想主義者ではない。
この作品を「ヒューマンサスペンス」と紹介する評もあった。それを書いた人はモヤモヤしなかったとみえる。
こんな監督の作品が「ヒューマンサスペンス」であるわけない。モンスターはヒューマンではない。
だからこそ、おススメしたい。
※作品写真と監督写真の提供は、サン・セバスティアン映画祭