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本能寺の変後、明智光秀を見限った3人の武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
高山右近。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」は、徳川家康が三河国に逃げ帰ろうとしていた。変後、明智光秀は味方を募ったが、3人の武将に見限られたので紹介することにしよう。

1.細川幽斎(1534~1610)

 細川幽斎の子・忠興の妻は、光秀の娘・ガラシャだった。当時、婚姻関係を結ぶことは、同盟関係を意味した。したがって、光秀は本能寺で織田信長を討ったあと、もっとも幽斎を頼りにしており、書状を送って協力を呼び掛けたことが知られている。

 ところが、幽斎・忠興父子の返事は「ノー」だった。幽斎は剃髪し、信長に弔意を示したのである。その後、光秀は幽斎・忠興父子に説得を続けたが、ついに翻意することはなかった。理由は謎であるが、幽斎は光秀が主殺しを行ったこと、当時の情勢から光秀に勝ち目がないと考えたのだろう。

2.筒井順慶(1549~1584)

 光秀は、かねて大和支配の一環に加わったこともあり、順慶とは昵懇の間柄だった。それゆえ、光秀は本能寺で信長を討ったあと、順慶に味方になるよう要請した。しかし、順慶には事情があり、独断で光秀に与することを決断することができなかった。

 順慶は信長から大和国衆の統括を命じられていたものの、決して国衆の意向を無視することはできなかった。光秀から打診された順慶は、大和国衆に考えを聞く必要があったのだ。結果、大和国衆の意向は光秀ではなく、羽柴(豊臣)秀吉に味方することだったのである。

3.高山右近(1552?~1615)

 摂津高槻城(大阪府高槻市)主の高山右近は、摂津茨木城(同茨木市)主の中川清秀とともに、光秀から味方になるよう協力を求められていた。右近や清秀は、光秀の与力衆だったので、協力を呼び掛けたと考えられる。しかし、結果は光秀にとって意外なものだった。

 「信長死す」の一報を受けた秀吉は、早々に味方を募っていた。中川氏に対しても、書状を送っていた。右近にも、秀吉の書状が送られた可能性は高いだろう。右近と清秀は、当時の情勢を総合的に検討した結果、光秀ではなく秀吉に与するという決断を下したと考えられる。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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