謎めいた僭称者、偽ドミトリーの物語
世に僭称者と呼ばれる者が時折現れますが、1600年ごろにモスクワ周辺で囁かれ始めた一人の名は、とりわけ異彩を放ちます。
その名は「ドミトリー」。彼は、殺されたはずのイヴァン4世の皇子を名乗り、荒唐無稽な話を巧みに紡ぎ、支持を集めました。
さて、この男、どこから来たのでしょうか?
ドミトリーは、当時のモスクワ総主教イオフの耳に入り、その存在が注目され始めました。
しかし、ボリス・ゴドゥノフという名のツァーリが彼を危険視し、追っ手を差し向けるや否や、ドミトリーはウクライナ地方のオストロフに逃れ、貴族コンスタンチン・オストロジスキーの庇護を受けたのです。
その後、リトアニア大貴族ヴィシニョヴィエツキ家のもとでさらに保護されます。
この家の人々、特にアダムとミハウのヴィシニョヴィエツキ兄弟は、ドミトリーを政治の駒と見なし、支持に回りました。
ドミトリーの物語は実に奇抜です。
曰く、「私はイヴァン4世の未亡人マリヤ・ナガヤの子であり、暗殺されそうになったところを奇跡的に逃れ、修道院で成長した。
その後ポーランドで教師をし、いまに至る。」 と。
しかも、彼にはポーランドの先王ステファン・バートリの私生児だという噂もついて回ります。
それでも彼は、皇子に似ているという評価を得て、イヴァン4世の妾たちの信頼を取り込むのに成功するのです。
乗馬や読み書きに長け、ポーランド語とロシア語を自在に操るその振る舞いが、多くの貴族を引きつけました。
1604年、彼はポーランド王ジグムント3世の前に現れました。
王は一時的な支援を約束するも、積極的な援助には踏み込まなかったのです。
だが、ドミトリーはしたたかでした。イエズス会と結びつき、カトリックに改宗し、さらには大貴族イェジー・ムニシュフヴ家の助力を取り付けたのです。
その条件は、ロシアの要地を譲渡し、ムニシュフヴ家の娘マリナを皇妃に迎えるというものでした。
そして彼の軍事行動が始まります。
ポーランドやリトアニアの支援を受け、3,500名の軍勢とともにロシア領に進軍したのです。
ツァーリの軍と交戦し、一時は滅亡寸前に追い込まれたものの、運命は転じました。
ツァーリ・ボリスの急死という、まさに天が味方したかのような出来事が起こったのです。
1605年、彼はモスクワに入城し、ツァーリとして即位しました。
その行動は迅速だったのです。
母マリヤ・ナガヤに自らの正統性を認めさせ、彼女を修道院から迎え出しました。かつて失脚した大貴族たちを呼び戻し、忠誠を誓わせたのです。
しかし、彼の治世は波乱に満ちていました。
特にカトリックへの親和性がロシア正教会や民衆の反感を買い、さらに婚姻を機にその不満が爆発します。
1606年5月、ついに反乱が勃発し、彼は命を落としたのです。
その遺体は無惨に晒され、焼かれ、大砲に詰められてポーランドに撃ち込まれたといいます。
それでも彼の影響は後世に長く語られ、母マリヤも最後には彼が皇子ではなかったと否定しました。
けれど、真実はもはや誰にもわかりません。
偽ドミトリーとは、虚構の中に真実を紛れ込ませた、まるで劇場のような男だったのかもしれません。