忠義の剣、漂泊の末路!結城宗広が辿った栄光と苦難
鎌倉時代末期、結城宗広は北条氏の忠実な家臣として南部陸奥を治めていました。
元弘の乱に際して討伐軍として畿内へ赴くも、やがて後醍醐天皇から討幕の綸旨を受け、新田義貞と共に鎌倉を攻め落とします。
幕府滅亡後、後醍醐天皇の信任を得て奥州の政務を委ねられ、その名声は足利氏、新田氏に次ぐ功績として語られるほどであったのです。
しかし栄光の頂点は短く、建武の乱以降、時代の奔流に翻弄されることとなります。
顕家と共に足利軍を撃破し、一時は京都奪還という大功を挙げた宗広だったものの、尊氏の反攻に伴い顕家を失い軍勢は壊滅します。
命からがら吉野へ逃れ、再起を図りました。しかし、その試みも厳しい現実の前に阻まれます。
義良親王を奉じ伊勢から奥州へ向かう途中、海上で遭難したのです。
漂着した地について『太平記』は安濃津(三重県津市)と語るものの、近年の研究では篠島(愛知県知多郡)である可能性が高いとされます。
漂着後、義良親王と共に伊勢へ至るが、宗広はそこで重病に倒れ、伊勢市光明寺にて没しました。
南朝への忠誠に燃えた武将の最期は、故郷から遠く離れた地で幕を閉じます。
『太平記』は宗広の死を壮絶に描き、暴虐な過去の報いとして塗炭の苦しみを受けたと語るものの、史実としては忠義を貫いた悲運の武将としてその名を留めているのです。
さらに皮肉なことに、彼の死後、息子親朝は北朝側へと通じ、南朝に刃を向けるという運命が待ち受けていました。
親子の運命が交錯するこの悲劇的な結末は、歴史の無情さを思い起こさせます。
結城宗広の物語は、栄光、忠義、そして不条理に彩られた一人の武将の生き様を私たちに伝え続けるのです。