空に生き空に死んだ、アメリア・イアハートの軌跡
女性として初めて大西洋を単独横断したアメリア
アメリア・イアハートは1900年代初頭のアメリカ、カンザス州アッチソンでドイツ系の裕福な家庭に生まれました。
幼少期から好奇心旺盛で、学問にも励みましたが、コロンビア大学医学部への進学は1年で中退。
その後、第一次世界大戦中にはカナダの陸軍病院で看護助手として働くという多彩な経験を積みました。
1921年、カリフォルニアで飛行訓練を受けた彼女は、初めての飛行機「キナー・エアスター」を手に入れます。
しかし家族の事情で飛行機を手放し、東部でソーシャルワーカーとして働くことになります。
それでも空への憧れは彼女の心に根強く残っていました。
転機は1928年のある午後、ジョージ・パットナムからの電話でした。
「大西洋を飛びたいと思いますか?」という誘いに応じ、共同パイロットとして大西洋横断飛行に挑戦することになります。
同年6月、フォッカー機「フレンドシップ号」で成功を収めた彼女は、ニューヨークでのパレードやホワイトハウスのレセプションで熱烈な歓迎を受け、一躍有名人となりました。
この経験を境に飛行は彼女の生活の一部となります。
その後も彼女は女性パイロットとして数々の記録を打ち立てました。
1931年にはオートジャイロでの最高高度記録を樹立し、1932年には女性初の大西洋単独横断飛行に成功。
荒天や機械トラブルを乗り越え、イアハートはアイルランドに着陸しました。
この功績により、アメリカ空軍殊勲十字章やフランスのレジオン・ド・ヌール勲章を受けています。
さらに1935年にはハワイからカリフォルニアまでの単独飛行も達成。
彼女の快挙は、女性が空を駆ける時代の象徴となり、多くの人々に勇気を与えました。
その人生は、常に風を追い求める冒険と挑戦の連続だったのです。
南太平洋の藻屑と消えたロッキード・エレクトラ10E
アメリア・イアハートが1937年に挑んだ赤道上世界一周飛行は、そのスケールと情熱から輝かしい冒険として語り継がれています。
しかし、同時にその旅は彼女の生涯の終着点ともなり、謎に満ちた遭難事件として多くの人々の心に刻まれました。
5月21日、カリフォルニア州オークランドを飛び立った彼女とナビゲーターのフレッド・ヌーナンは、ロッキード・エレクトラ10Eで東回りの航路を進みました。エレクトラは長距離飛行のために改造され、増設タンクを搭載していました。
6月30日にはニューギニアのラエまで到達し、次なる目的地としてアメリカ領の無人島、ハウランド島を目指して7月2日に離陸します。
しかし、この地に着陸することなく消息を絶ってしまいました。
この飛行の背景には、天候や技術的な問題が重なっていました。
燃料はおよそ20時間分搭載していましたが、天候は曇天で天測航法に必要な天体観測が困難でした。
加えて、ヌーナンのクロノメーターが正確に時を刻んでいないという問題もありました。
離陸後、無線での交信は途切れ途切れであり、ハウランド島周辺で待機していた沿岸警備隊の船「イタスカ」とも確実な連絡が取れない状況でした。
「イタスカへ。私たちはあなたたちの上にいるはずですが、見つけられません。燃料が不足しています。」
彼女の発したこの言葉が最後の明確な通信でした。
島を発見できなかったイアハートたちは、航路を修正しながらも、ついに目的地を捉えることができず、最終的に無線も沈黙しました。
搭載していた無線機は軽量化のために限られた仕様となり、救命イカダも搭載されていなかったことが後の検証で明らかになります。
また、使用されていた無線誘導装置は当時の最新技術でしたが、実用性に課題があり、彼女たちの救助に繋がることはありませんでした。
イアハートの飛行は、高度な技術や計画をもってしても、大自然の試練と人間の限界を思い知らされる旅だったのです。
彼女の失踪後、夫のジョージ・パットナムは、飛行中に送られてきた航空日誌をもとに『最後の飛行』という書籍を出版しました。
この一冊は、彼女の冒険の記録として多くの人々の心に残り続けています。
イアハートの運命は未だ明らかにされていませんが、その挑戦と不屈の精神は、空の旅に夢を追い求める者たちへの灯火であり続けています。
遺体は今も見つからず
アメリア・イアハートの遭難直後、アメリカ政府は400万ドルという莫大な費用を投じ、彼女とナビゲーターのフレッド・ヌーナンの行方を捜索しました。
捜索にはアメリカ海軍や沿岸警備隊のほか、当時近隣地域を委任統治していた日本の海軍も協力しました。
アメリカ海軍は空母「レキシントン」や戦艦「コロラド」を派遣し、多数の艦上機による探索を展開。
一方、日本海軍も水上機母艦「神威」を中心に第十二戦隊を派遣し、捜索範囲は総面積39万平方キロメートルにも及びました。
しかし、両国の尽力にもかかわらず、具体的な手がかりは得られませんでした。
捜索は7月19日に正式に打ち切られましたが、後にキリバス領のニクマロロ島(当時はガードナー島)でキャンプの跡のようなものが発見されたとの報告がありました。
この島は無人島とされていましたが、1940年に発見された西洋人女性と見られる遺骨がイアハートのものではないかと注目されました。
しかし、その遺骨は後に紛失してしまいます。
近年、「タイガー(TIGHAR)」という航空機の捜索団体が、ニクマロロ島で化粧用コンパクトの破片やプレクシグラス(飛行機のコクピット窓材)、1930年代の女性用靴の部品などを発見。
さらに遺骨の再鑑定で北ヨーロッパ系の長身女性である可能性が示されました。
同団体はイアハート機が不時着水後、しばらく水面に浮いていたという推測を立て、ニクマロロ島周辺での漂着説を提唱しています。
一方で、マーシャル諸島で目撃情報があるとの説も根強く存在します。
この説では、イアハートが諜報活動の一環で日本の委任統治領を飛行中に捕らえられた可能性や、サイパン島で処刑されたという噂が語られてきました。
2017年には、ヒストリーチャンネルがマーシャル諸島で撮影された写真を提示し、この説を補強しようとしました。
しかし、その写真がイアハートの遭難より以前に撮影されたものであることが判明し、この仮説は否定されています。
海底の捜索も続けられましたが、決定的な証拠は未だ発見されていません。
イアハートの最後の旅路を巡る謎は、時代を超えて多くの研究者や冒険家たちを魅了し続けています。
彼女の失踪は、航空史上最大のミステリーとして、人々の記憶に刻まれています。