技術の発展に抵抗して機械を打ち壊した、ラッダイト運動
17世紀からあったラッダイト運動の萌芽
歴史の風に乗り、ラッダイトたちの機械破壊運動を紐解いてみましょう。
その先駆けは17世紀後半、ストッキング職人たちが行った抵抗に遡ります。
安価で迅速に生産を可能にするこれらの発明は、熟練工を圧迫し、低賃金労働者を労働市場に招き入れたのです。
このような技術革新は政府の抑圧を招き、ついには保護法が制定されるに至りました。
さらに18世紀を通じて、食料価格の高騰が各地で反乱を引き起こしました。
例えば1710年のタイン港暴動や、1740年のノーサンバーランドでの蜂起がその例です。
こうした背景の中、ラッダイトたちは機械破壊を一種の戦術として活用しました。
歴史家エリック・ホブズボームはこれを「暴動による団体交渉」と評し、労働者の連帯や雇用主への圧力手段として位置づけています。
農業においても、1830年のスイング暴動では脱穀機が標的となりました。
彼らの行動は、単なる技術への敵意を超えた、時代への抗いの象徴だったのです。
機械を壊して回った熟練労働者たち
ナポレオン戦争が厳しさを増し、経済が混乱に陥った1811年、イングランドでラッダイト運動が始まりました。
熟練労働者たちは、自動化された繊維機器の普及に抗い、自身の職と生活を守るべく立ち上がったのです。
この運動は、1811年3月、ノッティンガムのアーノルドで初めて確認され、その後2年間でイングランド各地に広がりました。
当時の経済状況は厳しく、失業率やインフレ率が高騰していました。
その原因には、ナポレオン戦争の巨額な費用、大陸封鎖による貿易停滞、そして米国との緊張が含まれます。
こうした背景の中で、中流階級や上流階級は政府を支持し、政府は軍隊を使って労働者の反抗を力で抑え込みました。
ラッダイトたちは夜陰に紛れ、湿原に集まり、軍隊さながらの訓練を積んでいました。
彼らの攻撃対象は産業ごとに異なり、ノッティンガムシャーでは粗悪なレースを生む編みフレーム、ヨークシャーでは毛織物を仕上げる機械、ランカシャーでは蒸気動力の織機が破壊されたのです。
この破壊活動は、単なる機械への敵意ではなく、組織的な政治運動の一環でもありました。
ラッダイトたちは公開デモを行い、地元の実業家や政府高官に手紙を送りつけ、機械の破壊理由を説明するとともに、さらなる行動をほのめかして脅迫したのです。
特にヨークシャーでは、耕作者たちが「エノック」と呼ぶハンマーで作付機械を破壊しました。
この名前は、機械の発明者であるイーノック・テイラーを揶揄するものです。
「エノックが作ったものはエノックが壊す」という叫びは、彼らの抵抗の象徴として広まったのです。
一方、ランカシャーでは政府軍との衝突が発生し、治安判事や食品商人に対する脅迫や暴力も見られました。
1817年には、ノッティンガムの失業中のストッキング職人ジェレマイア・ブランドレスがペントリッチ蜂起を率い、ラッダイト運動の終焉を迎えます。
この蜂起は、機械破壊から離れた一般的な反乱でしたが、労働者たちの不満の象徴とも言えます。
ラッダイト運動は、単なる反技術運動ではなく、時代の変化に抗う熟練労働者たちの切実な叫びだったのです。
厳しい対応を取った政府
ラッダイト運動の広がりに対し、政府は厳しい対応を取ることになりました。
運動を鎮圧するために投入された兵士の数は12,000人にも上り、その多くが民兵やヨーマンリー部隊に属していました。
この数は、半島戦争においてウェリントン公爵が率いた英国軍の規模をも上回るものだったと歴史家エリック・ホブズボームは指摘しています。
その一方で、彼らの活動は暴力を伴うものとなり、ウィリアム・ホースフォールという工場主がラッダイトの一派に暗殺される事件も発生しました。
ホースフォールは「ラッダイトの血で鞍に乗り上げる」と挑発的な発言をしていたことで知られます。
犯行の首謀者とされたジョージ・メラーら4人のうち1人が情報提供者となり、残りの3人は絞首刑に処されました。
1813年1月には、ヨークでラッダイトに関連する大規模な裁判が行われました。
この裁判は見せしめとしての意味合いが強く、多くの被告が運動と無関係であったにもかかわらず起訴されたのです。
最終的に30人が無罪となった一方、有罪判決を受けた者は処刑や国外追放といった厳しい罰を課されました。
これにより、ラッダイト運動は急速に勢いを失っていきました。
1812年には「フレームブレイキング法」が制定され、機械破壊が死刑に値する犯罪とされました。
バイロン卿はこの法律に反対し、ラッダイトを擁護する数少ない著名な人物として知られています。
運動の記憶は民謡や歌として後世に受け継がれました。
ヨークシャー地方の「クロッパー・ラッズ」や、チュンバワンバによる「The Triumph of General Ludd」といった楽曲は、失われた技術や職人の誇りを讃えています。
一方、繊維産業を取り巻く環境は、当時の労働者たちにとって極めて不安定なものでした。
特に商人資本家による製造業の組織は、需要の変動に合わせて急激に雇用や生産を調整できる構造で、労働者に定職の保障を与えることはありませんでした。
賃金や雇用条件は収穫や戦争といった要因に大きく左右され、暴動や抵抗が周期的に発生する温床となったのです。
こうしてラッダイト運動は鎮圧されたものの、その根底にあった社会的不安や労働者の窮状は解決されることなく、産業革命の波に飲み込まれていきました。
参考文献
エリック・ホブズボーム「機械破壊者たち」(1998)『イギリス労働史研究』ミネルヴァ書房