伊達政宗毒殺未遂事件に関与した母の義姫は、悪女だったのか
現在も犯罪に加担する悪女がいるが、それは戦国時代も同じだった。義姫はあろうことか、子の伊達政宗を毒殺しようとしたという。それは未遂に終わったが、どういう事件だったのか考えてみよう。
義姫が山形城主の最上義守の娘として誕生したのは、天文17年(1548)のことである。永禄7年(1564)、義姫は米沢城主の伊達輝宗と結婚した。当時、最上氏と伊達氏は対立していたので、この結婚は両者の関係を深めるための政略結婚だった。和睦の証でもある。
永禄10年(1567)、輝宗と義姫に政宗が誕生した。義姫は政宗の文武の才能と忠孝が厚くなることを願い、湯殿山に祈念したと伝わっている。
ところが、政宗は5才のときに疱瘡を患い、右目を失明するという不幸に見舞われた。このことは、幼少期の政宗の性格を歪んだものにしたという。やがて、次男の小次郎が誕生すると、義姫は溺愛したこともあり、政宗との関係が徐々に悪くなったようである。
天正13年(1585)、輝宗は二本松城主の畠山義継に拉致され、不慮の死を遂げた。輝宗の跡を継いだのは、政宗だった。しかし、政宗は義姫の実家の最上家と対立し、天正18年(1590)には合戦に及ぼうとした。このとき義姫は体を張って両者の間に入り、戦闘を回避させることに成功したといわれている。
同年、伊達家内で政宗暗殺未遂事件という大事件が起こった。ことの発端は政宗が豊臣秀吉の命に背き、小田原合戦に参陣しなかったことである。このまま事態を放置すれば、伊達家は秀吉に滅ぼされてしまうと考えた義姫は、密かに政宗を暗殺し、次男の小次郎を家督に据えようと計画したのである。
義姫は政宗を暗殺すべく、食事に毒を盛った。しかし、毒見役が食事を口にしたところ、血を吐いて倒れたことから騒動となり、それが義姫らの陰謀であることが発覚したのである。
政宗は小次郎を切り伏せたので、義姫は兄の最上義光を頼って山形に逃亡した。ただし、この話はあまりに有名だが、後世の編纂物に記録されたものであり、現在では疑わしいともいわれている。
義姫は山形で寂しい晩年を過ごしていたが、この間も政宗と文通をしていたと伝わっている。慶長19年(1614)に義姫の兄の義光が病没すると、家親が最上家の家督を継承した。家親が若くして亡くなると、義俊が跡を継いだが、家中で内紛が勃発し、元和8年(1622)に改易処分を受けた。
行き場がなくなった義姫は、政宗を頼った。政宗は恩讐を乗り越えて、母を受け入れたのである。義姫が亡くなったのは、翌年のことである。。