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実は源頼朝よりも先に征夷大将軍となっていた源義仲。その経緯とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源義仲。(提供:イメージマート)

 寿永3年(1184)1月11日、源義仲は源頼朝に先んじて征夷大将軍に任命された(日付については諸説あり)。今から840年前の昨日のことである。

 源平合戦が激しくなった寿永2年(1183)7月、木曽義仲は叔父の源行家らとともに京都に入った。これにより平家一門は、安徳天皇を伴って都落ちした。

 後白河法皇や公家をはじめとする京都の人々は、これまでの平家の横暴に悩まされていたので、義仲の入京を大歓迎した。しかし、京都に初めて入った義仲は、大変な目に遭ってしまうのである。

 義仲は多くの軍勢を引き連れて都に入ったが、当時は飢饉に伴う凶作によって、十分な食糧を確保するのが極めて困難だった。地方から京都へ運ばれるはずの年貢も、なかなか搬送されなかった。

 義仲と行家の将兵は、畿内近国の作物を無断で刈り取るなど、とんでもない暴挙を行った。たまたま荘園から年貢が京都に運送されると、強奪するありさまだった。

 すでに、義仲の入京前に都にいた平家は、糧食の準備に大変苦労していた。結果、統制が困難になった平家の将兵は、畠から食物をも無断で刈り取り、あるいは人々から食料を強奪するなどし、もはやコントロールが効かなくなっていた。

 朝廷は義仲に対して、配下の将兵の強奪を止めさせるよう命じたが、もはや効果はなかった。こうして義仲は、朝廷、寺社、京都の人々の人望を失っていったのである。

 義仲が朝廷などから支持を失う状況下において、頼朝は巧みな政治的戦略で後白河法皇に急接近した。頼朝が上洛を匂わせたので、朝廷は大いに期待した。一方の義仲は、焦るばかりだった。

 後白河は「日本一の大天狗」と称された策略家であり、義仲を手玉に取ることなどは実に簡単だった。後白河は義仲を盛んに挑発し、叔父の行家と離間させようとした。やがて、後白河と義仲の関係は険悪となり、その対立は激化した。京都における義仲の立場は、悪くなる一方だったのである。

 同年11月、義仲は法住殿を襲撃し、御所から逃亡しようとした後白河を捕らえた。その翌月、義仲は院御厩別当と左馬頭を兼務し、軍事指揮権を掌握すると、源頼朝追討の院庁下文を獲得したのである。

 寿永3年(1184)1月、源範頼・義経率いる軍勢が京都に迫ると、義仲は征夷大将軍に就任した。『玉葉』には征東大将軍、『吾妻鑑』、『百練抄』などには征夷大将軍とある。

 こうして義仲は、範頼・義経率いる軍勢と戦ったが、あえなく敗北。敗れた義仲は逃亡したが、同年1月21日に近江粟津(滋賀県大津市)で討ち死にしたのである。

主要参考文献

鈴木彰など編『木曾義仲のすべて』(新人物往来社、2008年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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