文大統領「訪日見送り」の裏に、'高望み'は無かったか
ここ数か月間、日韓関係の焦点となっていた東京五輪に合わせた文在寅大統領の訪日が取りやめとなった。韓国側の事情を整理した。
●文大統領は一貫して訪日を希望
昨日、文大統領に最後の報告をした際に、大統領はとても残念がっていました。その上で、“状況がこうなったが両国首脳がいつか会えることを願う。実務協議を続けていけ”と強い意志を込めて話しました。
「訪日せず」との発表から一晩経った20日朝、発表を行った本人である朴洙賢(
パク・スヒョン)国民疎通首席は韓国の著名ラジオ番組に相次いで出演し、上記のような説明を繰り返した。
国民疎通首席とは文字取り、大統領府と国民の間のコミュニケーションの実務責任者だ。
韓国の文在寅大統領は早い段階から、東京五輪の開幕式に出席する意向を示してきた。
今年3月1日の「3.1独立運動」記念式典の演説では「今年開かれる東京五輪は、日韓・南北・米朝間の対話の機会となり得る」とし、出席の背景まで丁寧に明かしていた。
その後、4月初頭に朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の不参加が正式に決まり、朝鮮半島情勢が動くきっかけとなった18年の平昌(ピョンチャン)冬期五輪に次ぐ’二匹目のドジョウ’の希望は無くなったが、訪日には一貫した意志があった。
●遠い根本的な解決
それではなぜ、行かなくなったのか。
前出の朴疎通首席はやはり20日朝のラジオで、背景を二つに分けて説明した。要約すると以下のようになる。
(1)文大統領が望んだ「両国の国民に実質的に希望を与える成果」に至らなかった。日韓当局はそれにとても近いところまで行ったが、若干不足していた。
(2)国民がとても受け入れられないような状況が起きた。決定的な契機とは言えないまでも、国民の情緒を無視できないという部分が作用した。
詳しく見てみる。まず(1)の「成果」について、韓国メディアでは「韓国は日本政府による韓国への輸出規制強化措置の解除を望んでいる」と説明されてきた。
一方で日本側は、その’大元‘となったいわゆる徴用工裁判における韓国大法院判決(18年10月)について、韓国政府が丸抱えし解決することを一貫して望んでいる。
原告の日本企業に代わり、韓国政府が賠償金を全て出すといった形だ。日本は一銭も出す気はない。韓国側が条件を提示せよ、ということだ。
だが、こんな鍔迫り合いの中で「成果に近いところまでいった」とは筆者にはとても思えない。朴疎通首席はメディアに対し「何の成果も無かったのではなく、相当な成果があったと見て欲しい」と注文しているが、正直よく分からない。
韓国政府が丸抱えする解決策を日本が望んでいることは一昨年から広く知られており、今になって韓国がそれを提示するとは考えられないからだ。
筆者が取材したところ、徴用工裁判の原告側に韓国政府側から’解決’に向けた提案があったとは確認できなかった。
もし、原告に黙って解決しようとしているならば、2015年の日韓慰安婦合意を批判する「当事者無視」という論理を文政権みずからが破ることになる。
となると、ある日本メディアが報じた「GSOMIAの正常運営」の他に「WTOへの提訴取り下げ」という条件を韓国側が提案したと類推できるが、これはいわば’一段階下’の解決策に過ぎない。
日韓の’65年体制’を揺るがす判決を無かったものにすることを求める、日本政府が望む根本的な解決とは遠い。
●駐韓日本公使の’妄言’
次に(2)だが、駐韓日本大使館ナンバー2の相馬公使が日韓首脳会談を望む文大統領の動きを「マスターベーション」と表現したことが韓国メディアを通じ明らかになった点を指す。
この件に関し記者として一つ指摘しておくと、韓国のJTBCは「ルール違反」を犯している。一般的に外交官との個別懇談はオフレコ(非公開)が原則なため、今回の様な報じ方は非常に特殊なケースとなる。
言い換えると、「どの線から公開して良いのか」という話だ。例えば、戦争やテロなど人命や安全に関する話ならば公開すべきか否かを悩むだろう。
件の表現は、私も韓国の有権者の一人として気分の良い表現では無かった。とはいえ、似たような話は外交の現場で飛び交っている。もっとひどい表現も耳にする。
しかしそれはあくまで当該国の外交姿勢を判断する参考資料であって、JTBCのように公開することは正直理解できない。別の伝え方があったはずだ。
いずれにせよ今回の一件により、特に韓国において、日韓関係に情緒的な'譲歩'が入り込む隙間がさらに狭まることとなった。
一方、相馬公使のひと言が無ければ文大統領は「菅首相と軽く会うだけの訪問」という譲歩を選択できたか、という質問が残る。
菅首相は19日の会見で「文大統領がお越しになる場合には、外交上、丁寧に対応する、こうしたことを述べてきた」と明かしている。日本は元々、こんな形式の訪問、つまり会って挨拶するだけの訪問を受け入れる構えはあった。
さらに先の6月に英国で開かれたG7会合で、菅首相が文大統領との会談を避けた「借り」もあった。
しかし文大統領は冒頭でも触れたように東京五輪を「関係を進める機会」と位置づけ、成果にこだわった。そうこうする内に相馬公使の一件が明らかになり、身動きが取れなくなった。
●難しい評価
筆者は正直、’韓信の股くぐり’ではないが、今も文大統領は日本に行くべきだったと思っている。
朝鮮半島情勢の平和転換という大きな目的のために、小さな恥辱に耐えるべきではないかというものだ。次につなぐ外交だ。しかし、韓国側の世論もそう甘いものではない。難しい判断だった。
一方、韓国は先の5月の米韓首脳会談で同盟を重視するというバイデン政権の立場を全面的に受け入れている。そして米国は今も韓国に、日韓関係の改善を注文し続けているとされる。
この点では文大統領の「高望み」が日米韓関係の発展に水を差した、という評価が出るかもしれない。
見てきたように、今回の日韓の外交戦で勝ち負けを判定するのは簡単ではない。ただ、韓国は来年3月に大統領選を控えており、日本も秋以降に誰が首相になるのか見えない状況だ。
朴疎通首席は冒頭のラジオ出演の中で「再スタートし外相会談などを」と提案した上で「希望はある」と強調したが、今回の’お流れ’により文在寅政権下での日韓関係改善はいよいよ難しくなったという点は明らかだ。
一部では文大統領が閉会式に出席するのでは、という見立てもある。それができればよいが、菅政権には何よりも余裕がない。様々な懸案を抱えた’下方修正の日韓関係’は今後しばらく続くことになるだろう。