墓から掘り起こされ、調査された石田三成の遺骸
大河ドラマ「どうする家康」の最後の紀行潤礼では、石田三成の遺骸について触れられていた。三成の遺骸は掘り起こされ、調査された稀有の例なので、その経緯などを取り上げることにしよう。
慶長5年(1600)9月15日、石田三成は関ヶ原合戦で東軍に敗北し、戦場から逃亡した。その後、三成は逃げ続けたものの、同年9月21日に捕らえられた。
同年10月1日、三成は六条河原で斬首され、遺骸は大徳寺三玄院(京都市北区)に埋葬された。のちに、三成の遺骸は掘り返され、調査が行われたのである。
明治40年(1907)5月19日、三井財閥の朝吹英二が音頭を取り、時事新報社の協力により、三成の墓が発掘された。
その理由は、中世史家の渡辺世祐(東京帝国大学。のちに明治大学教授)が三成の伝記を執筆するためだったが、『稿本石田三成』(1907)は三成の遺骨について取り上げていない。
足立文太郎は三成の遺骨を調べたが、最終的に結果を公表しなかった。足立は破損した三成の頭蓋骨を復元し、石膏模型を作り、上腕骨などの計測を記録していた。
昭和18年(1943)、弟子の清野謙次が調査を引き継ぎ、三成の遺骨の写真を頼りにして、足立への聞き取り調査を行った。足立も清野も、京都帝国大学医学部に所属した研究者である。
こうして清野が調査を終えると、その成果は3冊の本にまとめられた。その結果、(1)三成の頭は前後に長く、反っ歯であったこと、(2)遺骨は三成の没年齢である41歳に相当し、性格的には神経質で虚弱体質であり、骨格は男女の区別がつけにくい優(やさ)男であったこと、が判明した。
のちに、三成の身長が156センチメートルと試算され、当時の平均身長の160センチメートル前後とほぼ一致したのである。
調査後、京都帝国大学に三成の石膏像などの標本が保存され、遺骨は改葬された。しかし、標本は貸し出した際に返却されることなく、ついに行方がわからなくなった。
そのような事情もあって、さらに三成の遺骨を調査することが極めて難しくなったのである。
人類学者の鈴木尚(東京大学)は、残された写真などのわずかな資料をもとにして、再び三成の頭蓋骨などを分析した。その結果、清野らの導いた結論が正しかったことが指摘されたのである。
一方で、追加の指摘もあった。三成の頭の前後の長さは現代日本人とほぼ同じであるが、左右の幅が狭く、反っ歯がかなり酷かったと指摘されている。
戦国時代の人物の遺骨が掘り返され、人類学的、医学的な調査が行われることは稀有である。三成の文献学的な研究と並行しながら、今後の研究に用いられることを期待したいと思う。
主要参考文献
清野謙次『日本人種論変遷史』(小山書店、1944)
清野謙次『日本民族生成論』(日本評論社、1946)
清野謙次『古代人骨の研究に基づく日本人種論』(岩波書店、1949)
鈴木尚『改訂新版・骨』(学生社、1996)