マイルの女王・ノースフライトが「フーちゃん」と呼ばれたのを記事にした理由
新潟滞在中の同期TMからの電話「すごい馬がいたぞ。見てこいよ」
あれは1993年5月、同い年の記者仲間Tが出張先の新潟から興奮気味に電話をかけてきた。
「春新(はるにい、4月から5月の裏の新潟開催)にすごい馬がいたぞ。ほぼ持ったままで直線ぶっちぎり。お前見てこいよ」
当時、Tは今はなき専門紙D誌の若手トラックマン。奥平真治先生や奥平真治厩舎のメジロライアンの担当だった小島厩務員に紹介され、同い年ということもあってしょっちゅう情報交換していた。とはいえ、出張から戻って美浦で顔を合わせたときにひととおりを話せばいいわけで、わざわざ新潟から電話してくるのは珍しかった。
ノースフライトの成績を調べる。当時はグリーンチャンネルもインターネットもなく、東西に分かれた週刊競馬ブックの成績表を見るまで詳しい状況を確認できなかった。それでも、Tがわざわざ食い気味に連絡してくるから、裏の未出走戦とはいえ2着に9馬身差だし、なによりその勝ちっぷりが凄い馬なのだろう、というのは想像がついた。
5月初旬といえば、すでに桜花賞は終わり、オークスへのステップレースの真っ最中。夏の上がり馬、そして秋以降の活躍を期待してノースフライトを取材することにした。
■1993年府中牝馬S(GIII) 優勝馬 ノースフライト
数少ない女性厩務員と女性ライターの縁
当時の私は競馬月刊誌に寄稿する競馬専門のライターだったため、毎週の競馬に対するノルマ取材はなかったため、遊軍のように振舞えた。美浦に住みながら栗東に通う生活で、手探りの毎日だった。
当時の競馬といえば、武豊ブームやオグリキャップブームはあったものの、まだまだ世間からは”ギャンブル”として後ろ指をさされる存在だった。
ノースフライトがいたころ、女性記者はほとんどいなかった。関西では大先輩の時計班のYさんと、後輩の関西D社と関西スポニチで予想するMさん(のちに関係者と結婚退職)がいたくらい。周囲が取材のお膳立てをしてくれるテレビのレポーターとは違い、紙媒体の記者は自分で計画を立てて取材に行く。先の2人の記者は予想中心の取材をしていたけれど、私は当時、月刊誌の雑誌に書くフリーライターだったため、今週の競馬ではなく数カ月先に話題になるネタを先物買いする必要があった。
当時、女性厩務員も少なかった。調教師の娘さんがその伝手で厩務員や調教助手をやることはあったが、競馬とは血縁のない女性が競馬学校厩務員課程を経て厩務員になる、というルートが確立されたのはまさにこの時代だった。
ノースフライトを担当するIさん(ひとまずイニシャルにしておく)は厩務員になったばかりだったが大卒でとても賢い方で、まだ1勝馬だったノースフライトを取材にきた私にとても丁寧に接してくれた。後にノースフライトが出世すると中にはノースフライトにはおかまいなく自分のペースで取材をしようとする方もいたことからIさんとマスコミとは距離ができていくのだが、幸い私のことは受け入れ続けてくれた。当時の私は毎週の予想をする必要がなかったので、それもIさんと私の関係性を保つのには良かったのかもしれない。
■1994年安田記念(GI) 優勝馬 ノースフライト
編集長からリクエスト「担当厩務員による馬の呼び名を取材して」
いまでこそ、競走馬は"萌え"の対象とされているし、そのキャラクターを深掘りするのは珍しくないが、当時はそんな視点で記事を書くのは"常識はずれ"だったし、ニーズもなかった。漫画等の創作物やタレントのコラムではなく、私はあくまでも現場で直接取材をしながらそういう切り口で人とは変わった取材を続けていたがメジャーな媒体でそれが陽の目をみることはなかった。しかし、たまたま私がご縁のあった競馬月刊誌はちょっと変わっていて、馬券研究の色が濃い雑誌ではあったが、「馬を個々のキャラクターとして捉える」という私の記事も容認してくれたのだ。
そして、編集長から「毎日担当している人たちがその馬をどう呼んでいるのかを聞いてくれ」とアドバイスされた。その流れで、私はまだ重賞を勝ったか勝たないかという単なる注目馬の時点から積極的に競走馬のニックネームを記事にしていた。
ウイニングチケットが「チケゾー」と呼ばれ、ノースフライトが「フーちゃん」と呼ばれる。
馬券とは全く関係ないので箸休めのようなネタだったけれど、その馬が出世すればそのネタが日刊紙等に拡散されて世に広まる。それだけでも嬉しい気持ちになるのに、数十年たった今、あのときの取材ネタが広くフィーチャーされているのはなんだかくすぐったい気持ちになる。
■1994年スワンS(GII) 優勝馬 サクラバクシンオー(2着 ノースフライト)
ノースフライト実装後の夢は、千二・千四でサクラバクシンオーに勝つ!
ノースフライトの担当厩務員だったIさんは、もうだいぶ前にトレセンを去った。若手トラックマンだったTは今や関東エージェント界を仕切る重鎮だ。みな平等に年をとり、それぞれ立場も変わった。
しかし、ノースフライトの走りと彼女が与えてくれた興奮だけは記憶から色あせない。のちに"砂の女王"と呼ばれたホクトベガに勝てなかったエリザベス女王杯。ノースフライト鞍上の角田晃一騎手が安田記念優勝のウイニングランで2着のトーワダーリン騎乗で競馬学校同期の田中勝春騎手とのハイタッチ。千二、千四のスペシャリストであるサクラバクシンオーとの対決。ノースフライトは勝っても負けても強さを感じさせたし、負けた相手もそれぞれスペシャリストでプロの戦いを見せられた気持ちになったものだ。
もう30年も前のレースなのに、鮮やかに脳裏に蘇る。そのきっかけをつくってくれる「ウマ娘」の世界観が私は好きだし、かたちは違えど、フーちゃんとまた会える気持ちになるのが嬉しい。そして、育成ではやはり千二、千四では敵わなかったサクラバクシンオーに勝たなければならない(笑)。その日が待ち遠しい。
■1993年エリザベス女王杯(GI) 優勝馬 ホクトベガ(2着 ノースフライト)