藤田菜七子さんの類稀なる功績 100人超の記者が追う涙の少女時代から開催リーディングの実力派へ
10月10日深夜、ネット上で「藤田菜七子が引退を決意、JRAに引退届を提出」という衝撃的なニュースが流れた。翌11日にその受理がJRAから発表され、デビュー時には"菜七子ブーム"を巻き起こした彼女はあっけなく引退。何のセレモニーもなく、ターフを去った。
あれから1か月。世の流れは早いもので、あれから随分日が経った気がする。そんな区切りの日に、藤田菜七子さんが日本競馬に与えた類稀なる足跡をまとめた。
いつまでも、騎手・藤田菜七子を忘れたくない。
■藤田菜七子 ひな祭りデビュー / 朝日新聞デジタル
■デビュー戦はコンバットダイヤに騎乗し、8着 / netkeiba
137名の記者、31台のテレビカメラが追った"ひなまつりデビュー"
藤田菜七子さんは中央競馬所属のジョッキーであるにもかかわらず、公営・川崎競馬場でデビューした。中央デビューに先駆け3月3日、ひなまつりの日に彼女は同期より一足早く初レースを披露した。
その日、川崎競馬場では普段とは違う光景がみられた。初騎乗となった1レースを見守る人々は、彼女の姿を追い、サインを求め、歓喜した。マスコミの数も桁違いで、スポーツメディア以外に一般媒体の文化面・スポーツ面の取材陣もやってきた。その数は総勢63社137名、テレビカメラは31台。2024年11月現在、川崎競馬場に問い合わせたところ、これほど多くの報道陣が一斉に川崎競馬場に取材に訪れたことはないそうだ。それほど、18歳の少女騎手は世間のニーズがあると判断されたのだ。
そんな大騒ぎの中、まだ競馬学校を卒業したばかりの少女はあどけない笑顔で、一見たどたどしくもシッカリした口調で話した。
「小学6年生の頃から夢見た騎手の世界。ずっとこの日が待ち遠しかった。」
紅潮した頬、少し照れたように微笑み緩む口元、化粧っ気もない素肌。18歳という年齢より幼く見えた。しかし、ひとたび馬に跨り、いざコースへ出向くと口元をキュッと固く閉じ、眼をゴーグルで覆い表情を隠すと、グッと大人びて見えた。そのゴーグルの下では本当は不安そうに眼を泳がせていたのかもしれない。しかし、そういった不安はゴーグルのスモークが全てかき消し、少女はひとりでレースに立ち向かっていた。
騎乗依頼があって騎乗馬が獲得できる、ある意味受け身の立場である騎手にとって、名前と顔を売るのはとても大切なプロセスだ。騎乗が増えれば、学びも増えるだろう。しかし、そうとはいえ、彼女は溢れる要望に応え続けるかたちで頑張ってきた。
菜七子が出れば、応援馬券が売れた。前走2桁着順で彼女が乗らなければ到底人気にならないような馬の馬券をも売ったのは明らかだった。
そんな彼女を師匠の根本師は車で送迎し、影で支えた。騎手は、特に新人のあいだは毎朝早朝に調教へ騎乗し、午後も厩舎をまわったり時に雑用をこなすしたりするものだが、それに加えて公営競馬を行脚し、取材に対応し、当然にレースにも騎乗するーー。まだ学校を卒業したばかりの18歳の少女には精神的、肉体的にも負担は大きかったであろうことは察するにあまりある。根本師が運転する車の中でぐっすり眠ることもしばしばあったという。
また、ある時は人前で泣き出す姿を報道された。過密スケジュールの中でパドックやカメラ越しに見せる彼女の様々な笑顔と悲哀を通じて、ファンの方々の多くは"ありのままの菜七子"のドキュメンタリーを見て彼女に共感し、応援してきたのではないか。その感情は明らかにギャンブルというより、ひとりの少女の生きざまをとらえたドキュメンタリーであった。故に、彼女の姿は勝利というわかりやすい競馬の記録には残らないが、多くの人々の記憶に焼き付いていったのだ。
■藤田菜七子 涙のJRA初勝利 2016年4月10日 / カンテレ公式
充実の2019年、新潟競馬の年間最多勝&3回新潟開催リーディングに輝く
その後、年齢を重ねるごとに彼女はどんどん美しく、そしてたくましくなっていった。もともと相当な気の強さを感じさせたが、デビュー当時は時折、垣間見えた脆さもやがて人前では全く見せなくなった。
やがて"菜七子フィーバー"も落ち着きをみせ、騎手としてのキャリアをしっかりと積み上げた。中でも牧原由貴子騎手が持っていたJRA女性最多年間勝利記録を抜いた2018年の翌年・2019年は大きな節目の年だった。
2月にコパノキッキングでフェブラリーS・GI初騎乗。このコパノキッキングとのコンビは続き、10月に東京盃で交流重賞制覇。12月に中央重賞のカペラS(GⅢ)を優勝。いずれもJRA所属の女性の騎手としては初記録だった。12月には中央・地方あわせて通算100勝を達成。年間43勝(中央)をあげ、前年の年間勝利記録を伸ばした。そして、この43勝のうち、20勝は彼女が得意とする新潟競馬場でのものであり、年間で特定の競馬場リーディング1位(3回新潟開催も9勝で1位)に輝いた。
"女性騎手"という言葉はあるが、勝負の世界は厳しい。まして、当時は女性ゆえに斤量が軽くなる恩恵もなかった。その状況下で、特定条件とはいえリーディングに躍り出たのは特筆すべきであり、性別に関係なくひとりの騎手として結果を残したことは記録だけでなく記憶にも留めたい。
■藤田菜七子×Dr.コパ コパノキッキングでの女性騎手初のGⅠ挑戦、東京盃での初重賞制覇について語る! / 東京馬主協会公式
クビ差惜敗の交流グレードⅠ やはり、また果敢に戦う菜七子を見たい
騎手・藤田菜七子の忘れたくないレースのひとつに2019年のJBCスプリント(JpnⅠ)がある。コパノキッキングをエスコートし、直線では先頭に立ち、後続を引き離しにかかる姿に「菜七子!」と叫んだ記憶のあるファンは少なくないはずだ。しかし、交流重賞のグレードⅠ競走の歴史へその名を刻む夢は外から追い込むブルドッグボスにクビ差捉えられ、儚く消えた。惜しい2着。
「とても悔しい。でも(開催された)浦和(競馬場)に、これだけ多くのお客さんが来てくれたことはうれしい」(藤田菜七子騎手)
この惜敗はスポーツ紙だけでなく一般メディアも取り上げた。一過性の"フィーバー"は収まっても、ひたむきに騎手としてレースに取り組むその生き様は多くの人を惹きつける力があった。そして、彼女はその姿を引き続き惜しげもなく披露し続けた。
そんな騎手・藤田菜七子は、2024年10月10日を最後に競馬の世界からピタリと姿を消した。たった1か月前のことなのに、まだ信じられないというか、また今日のレースにでも姿を現すのではないか、という気持ちにさえなる。
これまで沢山の人々の期待に応えてきた彼女には、個人としての幸せを沢山沢山味わって欲しい。だが、その一方で自分自身のために、かたちを変えてもいいのでキャリアを積み上げる姿を見せて欲しいとも感じている。そう思うのは我儘だとはわかってはいるが、仮に本人もそれを望むのならば新しい機会が与えられてもいいのではないか。
■2019年 JBCスプリント(JpnⅠ) コパノキッキング2着(優勝はブルドッグボス)