【戦国こぼれ話】「中国の三大謀将」の一人・尼子経久はいかなる人物だったのか
12月25日は、尼子経久が誕生した日である(旧暦の長禄2年〔1458〕11月20日)。ところで、尼子経久は「中国の三大謀将」の一人といわれているが、いかなる人物だったのだろうか。
■「中国の三大謀将」
尼子経久は一代で、中国地方の11ヵ国を支配したため(最大時)、毛利元就、宇喜多直家とともに「中国の三大謀将」の一人に並び称された。
経久には、ユニークな逸話がある。経久は家臣から持ち物を褒められると、すぐにその場で与える癖があった。
ある冬の寒い日、経久は家臣に着物を与え、自らは小袖一枚で夜を過ごしたという(『塵塚物語』)。
経久は室町幕府の寺社本所領安堵の政策に反し、寺社本所領や段銭を押領した。また、出雲の塩冶氏と対立するなど、国人らと反目した。
文明16年(1484)、京極政経は三沢氏ら有力国人に経久の攻撃を命じ、その後任に塩冶氏を任じた。
その後、経久は飢えに苦しみつつ各地を流浪し、母方の里で隠遁生活を送ったという逸話がある(『陰徳太平記』)。
■月山富田城の奪還と京極氏の没落
文明18年(1486)1月、経久は月山富田城(島根県安来市)の奪還に成功した。
さらに長享2年(1488)、経久は仁多郡に本拠を持つ三沢氏を降伏に追い込み、飯石郡の有力国人の三刀屋氏、赤穴氏を配下に収めた。
以後、経久は次々と周辺の国人を制圧し、出雲に権力を浸透した。
永正5年(1508)10月、政経は譲状を吉童子丸に残した(「佐々木文書」)。
その内容とは、①家督を譲ること、②出雲、隠岐、飛騨の守護職を譲ること、③所職の所領などを譲ること、の3点である。
しかし、出雲、隠岐の両国の実権は、完全に尼子氏に握られていた。直後に政経は亡くなったが、譲状は反故同然であった。
■経久の大躍進と没落
経久は、大内義興や細川高国らとの関係構築に力を入れた。経久の次男・国久は高国から、三男・興久は義興からそれぞれ偏諱を受けたのはその証だ。
ところが、永正15年(1518)、長男・政久は伯耆磨石城(島根県雲南市)を攻略中に戦死した。
一方、経久は三男の興久を塩冶氏の養子として送り込み、安定した支配を行った。
大永3年(1523)、経久は毛利元就に大内方の安芸・鏡山城の攻略を命じた。
元就は城主の蔵田房信の叔父・直信の調略に成功し、同城を落した。翌年には、伯耆の山名澄之、南条宗勝を放逐する。
大永5年(1525)、元就は尼子方を離れ大内方へ与し、経久は危機に陥った。さらに翌年には、山名氏が反尼子の態度を鮮明にするなど苦境が続いた。
大永7年(1527)、経久は自ら兵を率いて備後に出陣するが、陶興房に敗れる。危機を感じた尼子氏与党の備後の国人は、大内方に流れたという。
■子の興久の反乱
天文元年(1532)、子の興久が突如として反乱を起こした。興久が反旗を翻した理由は、国外への遠征が続き、国人らが負担の重さに音を上げたことにある。
ところが、大内義隆が経久への支援を約束した。結局、戦いは約4年もの長期間におよび、天文3年(1534)に経久が勝利した。
結果、興久は自害を余儀なくされ、その遺領は経久の次男・国久と興久の子・清久が継いだ。こうして経久は反対勢力を徹底的に殲滅し、一族や国人との関係を強固なものにした。
天文6年(1537)、経久は家督を孫の詮久(のちの晴久)に譲ったが、実際には後見として面倒を見ており、完全な引退ではなかった。
その後も経久は領国の拡大に腐心し、積極的に周辺諸国に攻め込んだ。備前、美作、播磨などにも出陣し、上洛の志向があったといわれている。
■まとめ
天文8年(1539)以降、経久は播磨国に侵攻し赤松氏を放逐するなど、一時的に支配を実現した。一方、大内氏から奪った石見銀山が奪還され窮地に陥る。
天文9年(1540)から翌年にかけて元就の居城・吉田郡山城を攻めるが、敗退。経久は、安芸における影響力を失うのである。
尼子氏はかつての栄光を失いつつあった。翌年10月、経久は無念にも月山富田城で亡くなったのである。