能登半島地震の被災地に寒さと大雪 思い出される阪神・淡路大震災に行われた大規模な疎開
西高東低の冬型の気圧配置
令和6年(2024年)1月15日は、日本付近に強い寒気が南下し、西高東低の冬型の気圧配置となり、日本海には、強い寒気が南下していることを示す筋状の雲が発生しています(タイトル画像)。
強い寒気の目安として、上空約5500メートルの気温が使われています。この気温が氷点下30度以下なら強い寒気の目安、氷点下36度以下なら大雪の目安とされています。
現在、日本上空約5500メートルには、氷点下30度以下の寒気が能登半島まで、氷点下36度以下の寒気が東北北部まで南下しており、北海道上空では氷点下42度以下です(図1)。
このため、北日本や北陸では日本海側を中心に雪が降り、風の強まる所もありました。
ただ、この寒気の南下は一時的で、西高東低の冬型の気圧配置は長続きしません。次第に日本列島は大陸からの高気圧に覆われ、天気が回復してくる見込みです。
今冬の冬日と真冬日
令和5年(2023年)12月22日(冬至)の頃に西日本を中心に南下してきた寒波(冬至寒波)では、福岡では最高気温が12月21日に3.7度、22日に4.3度と、平年の最低気温をも下回る厳しい寒さでした。
12月22日に全国で最高気温が0度を下回った真冬日を観測したのは264地点(気温を観測している全国914地点の約29パーセント)、最低気温が0度を下回った冬日は774地点(約85パーセント)もありました(図2)。
1月15日に冬日を観測したのが全国で528地点(約58パーセント)、真冬日を観測したのが158地点(約17パーセント)で、16日の真冬日の予想は332地点(約36パーセント)、17日の冬日の予想は682地点(約75パーセント)です。
冬至寒波に比べると、冬日は冬至寒波の頃を超えない予想ですが、真冬日は冬至寒波の頃を超える予想です。
ただ、大きな移動性高気圧に覆われる1月18日は、全国的に気温が上昇し、真冬日は12地点(約1パーセント)程度、冬日は292地点(約32パーセント)程度に大きく減少し、逆に、最高気温が25度以上の夏日が7地点(約1パーセント)程度で観測されそうです。
ただ、寒気は繰り返し南下してきます。
次の氷点下36度以下の寒気は、来週の週明け、1月22日に北海道まで南下してくる見込みです(図3)。
まだまだ、冬の荒天は続きます。
能登半島地震後の荒天と報道された死者数の推移
正月に最大震度7の能登半島地震が発生しましたが、被災地が半島の先端で交通手段が限られていたこと、地震発生後から雨や雪の日が続いていたことから、人的被害の全貌の把握がかなり遅れています。
大きな災害が発生した時は、人的被害の全貌の把握が遅れるのですが、能登半島地震では、地震発生の10日後くらいで、人的被害の全貌がわかってきました(図4)。
これを、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災や、平成23年(2011年)の東日本大震災と比べると、早い段階で一時的に行方不明者や安否不明者の数が増えたという特徴があります(図5)。
これは、各自治体が安否不明者のリストを早めに公表して情報を集めたことの反映と思います。もし、早めの安否不明者のリスト公表がなければ、もっと人的被害の把握が遅れていたと思われます。
阪神・淡路大震災に行われた大規模な疎開
平成7年(1995年)1月17日に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が発生した時、筆者は神戸市中央区中山手通りにあった神戸海洋気象台(現在は神戸地方気象台となり移転)に隣接する宿舎で寝ていました。
神戸海洋気象台の予報課長として神戸に赴任していたからです。上下動の揺れで目がさめた後、身体が横に叩きつけられる感じの揺れを感じました。
気象台は、神戸市沿岸部に細長く東西に延びる「震度7」の領域が切れているところにあり、「震度6強」でした。
令和6年(2024年)1月1日に石川県志賀町で震度7を観測した能登半島地震は、同じ1月の大地震ですが、地震発生後の天気については大きな差があります。
兵庫県南部地震の時、神戸海洋気象台では、観測も予報も一回も欠けることなく通常通りの業務を行っていましたが、1月22日に低気圧通過でまとまった雨の可能性がわかった20日からは「雨に関する情報(大雨情報ではありません)」などを発表して早めに警戒を呼びかけました。
兵庫県南部地震の時は、地震発生5日後の雨であり、ある程度の支援が進んだときの雨で、気温も冬とはいえ、平年より高めに経過していました。それまでは、晴れて、気温は平年より高く、救援活動が順調に進んでいました。
1月22日の雨は、ほぼ予想通りで、神戸市や西宮市などでは土砂崩れや道路の亀裂が相次いでいますが、事前避難で人的被害はありませんでした。
いろいろな防災関係者の努力の結果、大きな災害や不測の事態の発生を防ぎ、雨の翌日から本格的な復興が軌道に乗りました。
それでも、兵庫県南部地震の時の神戸市では、一刻も早い復興のために大規模な疎開が行われています。
地震直後は水や電気が止まって生活が不自由なことや、付近の建造物等が倒れる等の危険を避けるため、小さな子供のいる家庭では、親せきや知人宅へと続々と疎開をはじめています。
気象台でも、何人もの職員が家族を疎開先まで送り届けていますが、家族を心配しつつ勤務しなくてよくなったせいと思いますが、帰ってきた時には、一様に表情が明るくなっているのが印象的でした。
小さな子供に「ごはんを食べられるのは、お父さんがこんな時に皆のために大事な仕事をするからだよ。さびしいかもしれないけど頑張ってね。」といって仕事にでてきた職員がいましたが、小さな子供に、働く父親の姿を見せられたのは、最高の教育だったと思います。
地震後、しばらくすると、子供のいる家庭では、続々と実家や親戚宅に母と子の疎開が始まっています。
兵庫県調べで避難所のピークは地震発生一週間後の1月24日の1138か所(30万7022人)でしたが、その多くは学校でした。
このことから、多くの学校では被災者であふれ、授業がいつ再開できるかわからなくなったためです。
図6は、全国の国公立学校に転校した幼稚園児・児童・生徒の推移ですが、地震発生の約一か月後の2月14日には2万6000人以上に達しています。
授業が再開するにつれ、疎開した子供の人数は減ってきましたが、神戸市内の全校で授業が再開した2月24日でも2万人を超えています。
新年度に入って9000人で横ばいであることは、家族で引っ越しをし、親がそこで新しい仕事ついたという子供が9000人いたということかもしれません。
全国の地元紙や地元テレビ局で、疎開してきた子供たちが温かく迎えられ、新しい友だちができたという報道が数多くありました。
疎開しても疎開しなくても、子供たちに「震災ストレス」に対する心理ケアが必要ともいわれていますが、このようなマイナス面だけでなく、多くの人の思いやりや新しい友だちができたというプラス面もあったように思いました。
できるところから二次避難や疎開を
被災者といっても、一人一人事情が異なりますので、一概に言えないのですが、一日も早い復興や安全確保のためには、できるところから二次避難や疎開を行って被災地の人口を減らしておくことが必要と思います。
現に、能登半島地震で大きな被害を受けた輪島市では、市内中学校3校の全校生徒約400人の集団避難を検討しており、希望者が200人以上いるという新聞報道がありました。
また、小学生約700人は親元を離れることによる心理的負担が大きいということから集団避難を見送ったという新聞報道もありました。
さらに、厚生労働省では高齢者施設や障がい者施設の400人を避難させる計画が進んでいるとの報道がありました。
しかし、今回の能登半島地震では、支援活動が本格化しないうちに雨や予報が降り続いています。
そして今後も雪や雨が続き、連日、最高気温が一桁の予報です(図7)。
降水の有無の信頼度が5段階で一番低いEや二番目に低いDの予報が混じっていますが、しばらくは被災地の救援にとっての悪天候が続く見込みです。
兵庫県南部地震の時の神戸以上に、できるところから一刻も早く二次避難や疎開が必要と思います。
タイトル画像、図1、図3、図7の出典:ウェザーマップ提供。
図2の出典:ウェザーマップ提供資料をもとに筆者作成。
図4の出典:読売新聞等の新聞記事をもとに筆者作成。
図5の出典:饒村曜(平成24年(2012年))、東日本大震災・日本を襲う地震と津波の真相、近代消防社。
図6の出典:饒村曜(平成8年(1996年))、防災担当者の見た阪神・淡路大震災、日本気象協会。