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石垣山一夜城は、本当にたった一晩で豊臣秀吉が築城させたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石垣山城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、たった一晩で豊臣秀吉が石垣山一夜城を築城させ、北条氏を驚かせていた。このほか、秀吉は墨俣一夜城でも知られている。秀吉は本当にたった一晩で、石垣山一夜城を築かせたのか考えることにしよう。

 天正18年(1590)、秀吉は北条氏を討伐するため、水陸両面から15万の大軍勢を率いて小田原城を攻囲した。秀吉が率いる軍勢は、石垣山に着陣したのである。

 もともと、石垣山は「笠懸山」と称されていたが、秀吉が本陣として総石垣の城を築いたので、のちに石垣山と呼ばれるようになったという。

 石垣山一夜城は、たった一夜で築城されたというエピソードがある。しかし、いかに秀吉が築城の名手とはいえ、たった一晩で本格的な城は築けないので、ハリボテの城を豪華に見せかけたといわれている。秀吉ならではの機転といえるのであるが、本当に石垣山一夜城はハリボテの城だったのだろうか。

 石垣山城は、「石垣山一夜城」あるいは「太閤一夜城」と呼ばれていた。あえて一夜城というのは、簡易的なハリボテの城だったからである。秀吉は築城に際して、山頂の林に塀や櫓の骨組みを一気に造りて、壁に白紙を張ってあたかも白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採したといわれている。

 小田原城中の将兵は、突如として本格的な城が完成したので、驚愕し戦闘意欲を喪失したと伝わっている。ところが、この話は後世の創作に過ぎないことが指摘されている。

 石垣山城の築城は天正18年(1590)4月から開始され、のべ4万人もの作業員が工事に従事した。工事は約80日もの日数が掛かり、同年6月には終了したという。

 つまり、秀吉は短期間で城を築くため、人海戦術で工事を進めたのである。その間、北条氏は築城工事を知ったであろうが、とても妨害する余裕がなかったと考えるべきだろう。

 石垣山一夜城は、関東で最初に造られた総石垣の城だった。関東の城郭は石垣ではなく、土が盛られているのが大半である。石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、長期戦に備えた本格的な総構えであった。

 度重なる地震にも耐えてきたが、関東大震災ではかなりの石垣が崩落したという。現在、石垣山一夜城は公園として整備され、国立公園区域および国指定史跡に指定されている。石垣山城はハリボテの即席の城ではなく、本格的な中世城郭だったのである。

 秀吉は石垣山城が完成すると、側室の淀殿や茶人の千利休、能役者を招いて茶会を開いた。そして、ときには天皇の勅使を迎えたこともあった。この城の完成を待つまでもなく、秀吉は強く勝利を確信したに違いない。結果、北条氏は小田原城を開城し、秀吉の軍門に降ったのである。

 秀吉には、中国大返し、美濃大返し、先述した墨俣一夜城など「超人的な軍事の天才」というイメージが付きまとう。しかし、そのほとんどが後世の創作であり、一次史料の記述によって、覆されたものが多いことも知っておくべきだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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