料理の下手な銀行に切れ味のいい包丁を与えると
銀行の規制を緩和するのは、顧客の最善の利益に適うように働かせるためなのに、現実には手数料稼ぎの選択肢を増やすだけなのなら、逆に規制を強化するほかないのか。
料理と食材
食事の用意をしようと思って冷蔵庫の扉を開け、そこにある材料で様々に工夫しても、空腹を満たせるだけで、美味しい料理はできません。真に美味しい料理を作るには、必要な食材を買いに行くべきですが、一番近くのコンビニエンスストアで済ましたのでは、大した改善にはならず、食材の質と多様性を求めるのならば、少し遠くなるにしても、大きなスーパーマーケットに行かねばなりません。
飲食店を経営する料理人ともなれば、大きなスーパーマーケットでも不十分で、最良の食材を求めて、毎日、卸売市場に出向くことになりますが、おそらくは、料理人としての競争力の確立において、食材の質を評価する目利きと、最良のものを入手するための仲買人との関係構築は、料理そのものの技術よりも重要なのです。
むしろ、一流の料理人は、料理に合う食材を買うのではなく、食材をみて料理を構想します。食材のもつ可能性を完全に開花させるには、食材を主役にして、食材にとって最善の料理方法を考案するのでなければならず、その料理方法の自由闊達さを体得することこそ、達人の境地です。逆に、先に料理を組立てて、それに適した食材を求めれば、そのときに入手可能な食材の質と範囲に制約されるほかはなく、その制約への被拘束性は、料理の質に限界を画することになります。
全力を尽くすことと最善を尽くすことの違い
ある制約のなかで全力を尽くしたとしても、その成果は、理の当然として、より少ない制約のもとで全力を尽くしたときの成果に劣ります。最善の結果とは、最上の成果のことであって、完全な無制約があり得ない以上は、制約が最も少ない条件のもとで、全力を尽くしたときに得られるものです。故に、最善を尽くすとは、制約を乗り越える努力を絶えず続けながら、常に最小の制約のもとで、全力を尽くすことになります。
無制約に行動できる理想的な料理人とは、世界中の全ての料理の手法に練達し、世界中の全ての食材を最高の状態において入手できる環境にあって、いかに高価でも買うことのできるだけの資金力がある人であり、要は、最大限の選択範囲のなかで、完全に自由に、仕事のできる人ですが、しかし、そのような理想としての料理人は実在しません。
現実にいる料理人は、誰しも、料理技術、食材の調達、予算等の諸制約のもとで、限られた選択範囲のなかで、全力を尽くして仕事をしているわけですが、単に制約に拘束されているだけでは、職人としての成長も発展もないのであって、一流への道を歩むためには、いかなる制約も乗り越え得るとの信念のもとで、絶えざる努力を継続しなければならないのです。
最善という理想を目指すこと
ある制約のもとで料理をしていて、その制約が緩和されたからといって、料理の質が向上するとは限りません。より少ない制約のもとで、拡大した自由度を活かして、より高度な仕事のできる料理人は、実は、制約のなかで、単に全力を尽くしていたのではなく、常に制約がないときの最善を意識して、最善へ近づく努力をしていた人です。こうした努力をする人は、理想的な最善を実現できる人があり得ない以上、現実的な意味で最善を尽くしている人です。
最善を尽くすことの真の意味について、料理人についていえることは、広く一般化できます。料理に限らず、どの技術の利用も一定の制約下にありますが、どの領域においても、技能を進歩させるものは、単に制約のなかで全力を尽くす努力ではなく、常に制約を超えようとする努力、即ち、最善を尽くす努力なのです。換言すれば、一般に、技能を進歩させるのは、理想をもち、その実現のために、より少ない制約、即ち、より大きな自由へ向けて、絶えざる努力をすることなのです。
銀行の個人向け金融サービス
経済と社会の成熟に伴って、個人向けの金融サービスの重点分野は、住宅ローン等の各種ローンの提供によって資金調達を支援することから、投資信託等の提供によって資産形成を支援することに転換してきていて、金融行政は、環境変化に適合した規制改革を行うことで、顧客の需要の変化に金融機関が対応できるようにしています。
例えば、銀行業は最高度に規制されていて、ローンの提供においては、従来から経営の自由度は高かったものの、資産形成に関しては、かつては、預金の提供しかできなかったのですが、現在では、投資信託と国債の提供ができるばかりか、証券会社を子会社化することも認められていて、銀行において提供され得る資産形成関連の金融サービスの範囲は、著しく拡大されています。
こうした規制改革の主旨は、銀行に対して、資産形成の支援において顧客に提供できる選択肢を拡大させることで、顧客の真の利益のために最善を尽くすべく、行員の提案能力を高めるように促すものであり、銀行の業務範囲の拡大は、その前提になっているわけです。なぜなら、限られた選択範囲のなかでは、いかに銀行が顧客の利益のために全力を尽くしても、最善の結果にならないからです。
規制緩和の論理的誤謬
規制緩和によって、銀行が顧客の最善の利益のために行動すると考えるのは、明らかな論理的誤謬です。即ち、銀行が顧客の最善の利益のために真剣な努力をするとき、規制の制約が強く意識されるようになって、必然的に規制改革が要求されてくるのであって、そうした銀行の努力がないなかで、規制改革を行っても、銀行に顧客の最善の利益のために行動するように促すことはできないのです。
そして、事実として、銀行にとって、規制改革は、自分の利益のために手数料稼ぎを行うための道具を増やしただけの結果となっています。こうなれば、規制改革は、有効でなかったというよりも、有害であったのであって、故に、金融庁は、今更ながらに、銀行に対して、顧客の利益のために最善を尽くすように求めるという矛盾に陥っているわけです。
例えば、6月23日に、千葉銀行の子会社のちばぎん証券は、適合性原則に反して顧客に仕組債を販売したとして、また、千葉銀行は、ちばぎん証券に仕組債の販売を前提に顧客を紹介したとして、金融庁の行政処分を受けていますが、これは、規制改革を手数料稼ぎのために悪用するという極めて悪質な事案なのです。
現在の金融行政と矛盾する古い規制改革
現在の金融庁の行政手法の前提では、銀行は、事業の持続可能性を意識するとき、必然的に顧客本位の業務運営に行き着き、そこを徹底的に極めるときに、顧客の最善の利益のために働くことになっています。そして、金融庁は、そうした先見的に覚醒した銀行の改革を支援していくことで、逆に自己改革できない銀行は、徐々に顧客を失って、自然に淘汰されると考えているわけです。
故に、現在であれば、銀行は、事業の持続可能性のために自主自律的に顧客本位を徹底し、顧客の最善の利益のために行動するとき、桎梏となる規制の撤廃を要求し、金融庁は、それに対応することで、規制改革がなされていくので、従来のように、全ての銀行に対して、画一的に規制改革が適用されることはあり得ないはずです。
故に、十分に検討に値する施策として、銀行が投資信託や保険の販売を行うことについて、また、銀行が証券会社を傘下に収めていることについて、一定の猶予期間を定めて、その間に継続のために必要な諸条件を充足できないときには、効力を失わせることはあり得ます。
例えば、金融庁として、千葉銀行に対し、猶予期間中に抜本的な改革を断行できないのならば、ちばぎん証券の廃業か他社への譲渡、および銀行本体における投資信託と保険の販売の廃止を求めても、少しも過酷ではありません。