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投資家が競争することで企業の競争が促される好循環

森本紀行HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長
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 真の競争においては、自己記録の更新が目的なのであり、その目的の実現過程において、他者の記録が自然と凌駕されていき、記録の平均値も改善していくのです。

死語となった徒競走

 徒競走は、昔は、どの小学校でも行われていましたが、今では死語になりました。徒競走は走る速さの競争ですが、その主旨は、子供の間に順位を付けることにはなく、自然な競争心のもとで全員が懸命に走れば、平均的な速さが改善していく、即ち、子供の体力が向上するとの期待にあったわけです。つまり、全員が全力で走らなければ、平均的速さの改善は起きず、全員が全力で走るように促すためには、競争が必要で、競争すれば、結果的に順位の付くことは不可避だということです。

 徒競走の本質は全員が全力で走ることです。全員が全力で走る結果として順位ができ、平均時間が計測され、その平均時間は、全員が一位を目指して全力で走るからこそ、改善していくのです。ここで重要なのは、第一に、全員が一位よりも下の順位を目指したら、先頭を切って走り出すものはなく、競争が始まらないことであり、第二に、競争後の結果である平均時間について、それを競争前の目標として設定できないことです。

競争が社会の進歩の根本原理

 徒競走の背景にある思想は、競争が体力改善の原動力だという論理ですが、これは社会の進歩の一般的な原理であって、産業界の革新は常に企業間の競争によって実現されるのです。ただし、決定的に重要な条件は、競争が公正なものであることです。公正性には様々な要素が含まれ得ますが、少なくとも、競争せずして、競争の成果を得るのは不公正であって、故に、特許の制度があるのです。徒競走がなくなったのも、子供の間に順位の付くことが不公正だと感じられたからでしょう。

競争の真の意味

 実は、競技として走ることでは、走る選手の自己記録の更新が目的なのであり、その目的の実現過程において、他の選手の記録が自然と凌駕されていくわけで、競争においては、真の競争相手は自分自身なのです。故に、本来は、一人で走ってもいいわけですが、集団で競って走るのは、競技として成立してきた歴史的な理由により、また、人間の特性として、他者に勝つという具体的な目標をもつことで、結果的に自分に勝てるようにできているからでしょう。

 企業間の競争も、企業の自分自身に対する競争です。産業界の革新は、必ず一つの企業の創造に発するのであって、そうした創造は、企業の成長への意欲、即ち、企業が現在の自分を超えて新たな自分になろうとする努力から生ずるのです。つまり、企業の自己変革によって、企業間の競争が起きるのであって、企業間の競争によって、企業の自己変革が起きるのではないわけです。

 こうした本質的な意味における競争のもとでは、記録、技術、品質などについて、最高の更新だけが問題なのですが、競争の結果として、平均的な記録、技術、品質が改善していくことは、極めて重要な副次効果です。ただし、平均の改善は、真の競争の結果にすぎないのであって、結果である平均を目的にすることはできません。子供の平均的体力の増進を目的とするのならば、徒競走は必ずしも最適な方法ではなく、故に、本来の主旨に反していって、順位を争うことに主眼が移り、廃止されることになったのでしょう。

株式市場における企業の競争

 企業は、株式市場において株式を発行することで、成長のための資金を調達します。上場企業に対して、成長、即ち、自己革新による競争での勝利が求められるのは、そもそも、上場目的が成長のための資金調達だからであり、調達手段として株式の発行が選択されるのは、成長には、大きな不確実性が伴い、かつ長い時間を要するために、負債による調達が適合しないからです。

 株式による資金調達においては、投資家からの企業に対する評価が決定的に重要です。当然のことながら、投資家からの評価が高ければ、株式の発行条件がよくなり、有利な資金調達が可能となって、それだけ成長戦略における競争力が増大するのですから、企業は、投資家から高い評価を得られるように、経営実態を示す諸指標の改善について、競争するわけです。

 そして、ここにも競争の本質が明瞭に現れています。なぜなら、競争といっても、企業が自分の経営諸指標の改善を競うのですから、それが企業の自分自身との戦いであることは明らかだからです。こうした各企業の自分自身との戦いとしての経営改善努力は、企業間の競争につながり、結果として、企業全体の平均的な諸指標の改善が起きるわけです。

株式市場における投資家の競争

 より優れた企業を発見するために、投資家が常に調査研究し、投資対象の企業の価値を評価する努力をしているのでなければ、いかに企業が投資家からの評価を高めようとして経営諸指標の改善を図っても、効果がないはずです。少なくとも、事業として顧客の利益のために株式投資を行う投資運用業者にとっては、投資対象の選択技術を競うことは事業上の責務です。

 投資運用業者の銘柄についての価値評価は、それが高度な専門性に基づく質の高いものである限り、一般の投資家に対して、指導的な影響力をもつはずです。つまり、投資運用業者の価値評価に基づく銘柄選択行動は、株価形成に影響を与え、そこで起きる株価変動は、一般の投資家の注意を喚起して、追随する投資行動を誘発し、その結果として、投資運用業者の価値評価の方向へ、株価が動くと想定されるわけです。

 ここでも競争の本質は同じで、投資運用業者は、銘柄選択の技術向上のために自分自身と戦い、その結果として、株価形成を主導することで、投資収益率の実績値において、他社と競争するのです。銘柄選択の技術は、他社との競争によって、向上するはずもなく、あくまでも、投資運用業者の自己研鑽によって、磨かれるものであって、投資運用業者が自分自身と戦い、あるいは株式市場と戦うことで、結果的に、運用成績の競争が生じるわけです。

市場指数に勝つことの意味

 投資家が企業価値を真剣に評価することによって、その価値評価の方向へ株価が形成され、その結果として、市場指数、即ち、株価の平均値が変動するのですから、投資運用業者として、価値評価の妥当性を競い、株価形成における主導的影響力を競えば、その投資収益率の実績は、結果的に市場指数の変動率を凌駕するはずです。これが市場指数に勝つということの真の意味です。

 しかし、投資運用業界の現状においては、自然な展開として、この理屈が逆転して、市場指数に勝つことが目的になっています。確かに、企業価値分析を徹底して結果的に市場指数に勝つことについて、市場指数に勝つために企業価値分析を徹底すると表現しても間違いではありませんが、結果と目的を入れ替えれば、弊害の生じることは避け得ません。

絶対価値から相対価値への転換

 株式投資の原理は、株価が企業価値の方向へ動くことを前提として、株価変動を先取りするために、価値分析を行うことですから、先行する価値分析においては、特定の企業の絶対的な価値が評価されるわけです。しかし、市場指数に勝つことを意識すれば、企業の価値は、全ての上場企業の平均的価値との関係において、相対的に定義されることになります。

 相対価値評価においては、市場指数の絶対水準がどこにあろうとも、平均の定義により、必ず、半分の企業は相対的に高い価値をもつことになり、市場指数の絶対水準の妥当性という根本問題が隠されてしまいます。隠されるというよりは、むしろ、投資運用業界としては、株式投資の範囲内では、市場指数の絶対水準の意味に関して判断しないわけです。

皆で手をつないで走る徒競走

 今では、徒競走が廃止されて、皆で手をつないで仲良く走ることが行われているようです。こうすると、走る速さの平均値に大した意味はなく、また、それが改善する見込みも乏しいですが、それでも、少しでも速く走ろうとする子供がいて、一応は順位がつくので、競争といえば競争です。そして、これが投資運用業の競争の実態に近いわけです。

HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長

HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長。三井生命(現大樹生命)のファンドマネジャーを経て、1990 年1 月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。 2002 年11 月、HC アセットマネジメントを設立、全世界の投資機会を発掘し、専門家に運用委託するという、新しいタイプの資産運用事業を始める。東京大学文学部哲学科卒。

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