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明智光秀の「とき(土岐)の随分衆」という記録の「随分衆」の意味とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀。(提供:アフロ)

 過日、本能寺跡(京都市中京区)の発掘調査の結果、木製品が大量に出土し、それが大内義興と関係あるのではないかと報道されていた。こちら。誠に興味が尽きないが、やはり本能寺といえば、本能寺の変だろう。

 織田信長を自害に追い込んだのは、明智光秀だった。ところで、『立入左京亮入道隆佐記』には、光秀が「とき(土岐)の随分衆」だったと記されているが、その意味について考えてみよう。

 光秀の出自に謎が多いのは、周知のとおりである。その出自は土岐明智氏が有力視されているが、幕臣の進士氏である(のちに明智家の養子となる)との説もある。

 いずれにしても、系図における光秀の父の名が一致せず、ましてや一次史料で確認できるわけでもないので、現時点で光秀が土岐明智氏の流れを汲むことについては、疑問視する向きもある。

 『立入左京亮入道隆佐記』は、朝廷の禁裏御蔵職を務めた立入宗継の覚書で、天正から文禄年間の出来事を記したものである。それを19世紀になって、子孫がまとめたという。宗継の晩年に至って成立したものなので、区分としては二次史料といえるだろう。

 その中で光秀について注目すべき記述があり、それこそが「美濃国住人とき(土岐)の随分衆」というものである。従来の研究では、光秀が美濃国の住人で、土岐氏配下の「けっこうな身分の者」と解釈されてきた。

 しかし、近年では「けっこうな身分」ではなく、「付き随う者たち」と解釈すべきという説も登場した。「美濃国住人とき(土岐)の随分衆」は、多少意訳して「土岐氏を護衛する一員」と解釈すべきと指摘されたのである。

 「随分」という語は辞書にも取り上げられており、多くの語義を持つが、少なくとも「付き随う」という意味はない。「随分衆」に関しては先述のとおり、「けっこうな身分の者」などと解釈するのがいいだろう。

 随分衆という語は、戦国時代のほかの古文書にも散見するが、「付き随う者たち」と解釈するよりも、「けっこうな身分の者」と解釈するのが妥当である。

 多くのケースでは、敵兵を討った場合に敵兵を「随分衆」と表現するが、それは「けっこうな身分の者」というより「敵の精鋭部隊」と言い換えてもいいだろう。つまり、敵の雑兵を討ち取ったのではなく、精鋭部隊を討ったことを明示すべく、「随分衆」とあえて書いたのである。

 ただし、『立入左京亮入道隆佐記』に光秀が土岐氏に仕えていた「けっこうな身分の者」と書かれているとはいえ、土岐明智氏の流れを汲むという根拠にはならない。

 宗継がしっかり調査をして光秀を「美濃国住人とき(土岐)の随分衆」と書き記したのではなく、あくまで世上の風聞を書いたに過ぎないと考えられるからである。

 したがって、『立入左京亮入道隆佐記』を光秀の出自の根拠史料にするには難しく、それはほかの二次史料だけでなく、日記のような一次史料も伝聞を書き留めていることが多いので、注意が必要である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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