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本日、日本マクドナルド生誕50周年 第1号店は工期「39時間」で出来上がった

千葉哲幸フードサービスジャーナリスト
オープン当時の日本マクドナルド1号店。(マクドナルド公式Youtubeより)

日本のマクドナルドは2021年本日7月20日でちょうど50歳となる。1971年7月20日、東京・銀座の三越百貨店の1階にオープン、この日の午前9時に開店レセプションが開催された。本日は火曜日だが、1971年7月20日も火曜日だった。日本のマクドナルドの1号店が「火曜日」にオープンしたのはワケがあった。

創業者、藤田田の用意周到な行動

マクドナルドが日本で展開することについてはダイエーがアメリカと合弁会社を設立するべく交渉を行っていたが、出資比率で合意に達することができずに決裂した経緯があった。

日本でマクドナルドを展開することになったのは藤田田氏が代表を務める藤田商店である。

藤田氏は、米国マクドナルドに日本の大手商社などを紹介する役割を担っていたが、米国マクドナルドの創業者であるレイ・クロック氏から「フジタ、マクドナルドを君がやってくれ」と直接プロポーザルがあったのだという。以下の会話文は、筆者が編集に関わった『月刊食堂』(柴田書店)の別冊『日本の外食産業』(1991年)からの引用である。執筆したのは筆者の先輩で、藤田氏に取材をした松坂健氏の回想録である。

「私(藤田氏)はとてもできない。だからやれる人間を紹介しているではないか、と断ったら、われわれ(米国マクドナルド)は決定権を持つ人間とさしで交渉したいんだ、と言ったね。そして、ある程度金を持っていて、ある程度学歴があって、40歳前後で、自分で仕事を持っていて、遊んでいられて、英語が分かって、身体強壮である。そういう人間でなければ交渉相手にならない、と言うんだ。そして、お前はすべての条件を満たしているではないか、と言ったんだ」

これに対して藤田氏は次の条件を出した。①出資比率は50対50であること。②社長は日本人がやってアメリカ人は経営に一切口を出さないこと。③儲けはアメリカに持って帰らずに、すべて日本に再投資すること。④経営権、人事権はすべて藤田に帰属すること。⑤あらゆる経営ノウハウは提供してもらうが、命令は一切出さないこと。

当時を振り返って、藤田氏はこう語ったという。

「これでクロック氏は断ると思ったんだ。こんな条件を出されたら、ほかの相手を見つけた方がいい、となるからね。しかし、クロック氏は私の前で両手をパッと広げて『お前がそう言うのならば、それでやろうじゃないか。というんだ』

――以上が松坂氏の回想録である。

さて、藤田氏が出した条件に沿って、日本マクドナルドの計画は進められていく。

第1号店の立地について、アメリカ側では郊外を主張していたが、藤田氏はそれを一蹴した。

「日本の輸入文化はすべて東京から始まっていて、東京の中心は銀座だから、第1号店は銀座であるべきだ」と考えた。これが「火曜日」に出店することになったことの発端である。

日本マクドナルド創業者の藤田田氏。2003年3月28日の株主総会後に会長を退任した。(筆者撮影)
日本マクドナルド創業者の藤田田氏。2003年3月28日の株主総会後に会長を退任した。(筆者撮影)

工事のシミュレーションを繰り返す

第1号店の出店場所は、銀座四丁目の三越百貨店。銀座の中心である。しかしながら、三越百貨店サイドからは営業している間に店舗の工事を行わないことを要請された。そこで考え出された工事の日時が、日曜日の午後6時閉店(当時、以下同)と同時に工事を開始して、翌日の月曜日の休店日にフルに行い、翌々日の朝9時の開店レセプションに間に合わせる――というものだった。マクドナルドの日本第1号店は実に「39時間」という短い工事期間で完成させたのである。

しかしながら、いきなり39時間で店をつくったわけではない。この限られた時間内で完成させるために別の場所に店の工事のシミュレーションを行う場所を設けていた。第1号店と同じ条件の下で、つくっては解体するということを繰り返して工期を39時間以内に短縮していったという。

こうして、1971年7月18日日曜日午後6時、三越百貨店の閉店とともに日本のマクドナルド第1号店の工事が始まった。作業に取り掛かったのは総勢70人という。ここから二日間の不眠不休の工事の後に、7月20日火曜日の午前9時、マクドナルド日本上陸第1号の開店レセプションを迎えることが出来た。

ハンバーガー「65円」で販売個数8倍

マクドナルドが日本に上陸して30年が経過した2000年の当時、外食企業の多くは低価格化に傾斜していた。外食産業の市場動向を見ると1997年をピークにして下がってきている。ほとんどの既存店は客数、売上ともに下がっていた。それを克服するものと考えられた手法が「価格を下げて、たくさんの人に買ってもらう」ということであった。これを力強く推進したのは日本マクドナルドであった。

そもそも、外食の低価格化はすかいらーくが1992年から積極的に推進していた「ガスト現象」にさかのぼることができるが、それはやがて客層の悪化や利益の減少によって路線を修正せざるを得なくなった。

このような反省がありながら、1999年以降から再び、多くのチェーン化レストランが低価格を打ち出すようになっていった。

日本マクドナルドでは2000年2月14日から平日半額セール「ウイークデースマイル」をスタート。通常130円のハンバーガーが65円、160円のチーズバーガー80円となるものだ。これによってほとんどいなかった中高年男性客がランチタイムに見られるようになった。このセールについては事前にCM等の告知を行っていなかったが、ハンバーガーの販売個数はいきなり3倍となり、この年のゴールデンウイーク前後には8倍にも達した。前年同日の販売個数が25万食であるから、1日で200万食を売ったことになる。

日本マクドナルドでは、これに向けて1999年1月からキャンペーンプログラムを緻密に展開してきた。まず、ブレンドコーヒー半額、コーンポタージュ半額(各90円)からスタート。ハンバーガー、サイドメニューを含めて低価格のキャンペーンをジャブを入れるような感じで行っている。筆者が編集長を務めた『飲食店経営』(当時、商業界)の記事では、1999年1月より2000年2月までの間に27回行われている。外食が低価格化に向かっている中でも勝ち抜く姿勢が秀逸である。

受け継がれる創業者のDNA

藤田氏は数々の名言を残している。

・人は金と使命感で働く。

・人生は不平等である。~略~ あとは挑戦のみである。不平等に屈してはならない。

・本を読め、人と会え、街を歩け。

・ビジネスは「勝てば官軍」である。~略~ 敗者は滅びるのみである。

・人生に満塁ホームランはない。ゴロやバントを狙え。

・どんな環境にあろうとも売上を伸ばすのが商人の知恵であり、才覚である。

(ウェブサイト「LIVE THE WAY」)

マクドナルドが日本に誕生して50年、コロナ禍で多くの外食企業が業績を悪化させている中で日本マクドナルドは快進撃を見せている。この6月の既存店前年同月比は売上高(プラス、以下同)14.7%、客数12.3%、客単価2.2%となっている。これは、これまでさまざまな新商品で顧客認知度を高め続けてイートインのほかにテイクアウトという業態特性を定着させたことの成果に他ならない。上記にある、「どんな環境にあろうとも売上を伸ばすのが商人の知恵であり、才覚である。」という考え方が生かされている。

常識離れのことを思いつき、それを大胆不敵で用意周到に執行する藤田氏が培った日本マクドナルドのDNAは今も受け継がれている。

フードサービスジャーナリスト

柴田書店『月刊食堂』、商業界『飲食店経営』とライバル誌それぞれの編集長を歴任。外食記者歴三十数年。フードサービス業の取材・執筆、講演、書籍編集などを行う。

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