ポル・ポト派幹部に虐殺の責任を問うたカンボジア特別法廷とは何だったのか ひっそりと9月に審理終結
(本稿は「Kyodo Weekly10月10日号(株式会社共同通信社)」からの転載記事に加筆したものです。)
■日本が8867万ドルを負担
彼岸の中日に向け、墓掃除をせっせとやっていた9月22日、携帯電話が小さな音を立てた。「カンボジア特別法廷ライブ中継」とのメッセージが画面にある。
大量虐殺などの罪に問われたポル・ポト派の元国家幹部会議長キュー・サムファン被告(91)の二審判決である。特別法廷は最高刑の終身刑を言い渡した1審判決を支持した。5人いた被告のうち4人は2019年までに病死しており、16年にわたった特別法廷はこれをもって事実上、終了した。
いったい、この法廷は何だったのだろうか、と墓石に座って思った。1970年代に約2百万の国民を飢餓や虐殺で死に追いやったとされるポル・ポト派最高幹部を裁き、法の正義を実現するとして設置されたはずだった。3億ドル(約440億円)以上が費やされ、日本はそのうち約8867万ドルを負担したが、起訴された被告5人はいずれも高齢で病気を抱え、判決を受けるまで生きていたのは3人だけだった。虐殺が起きた理由は、明らかにならなかった。
特別法廷が2010年7月、カン・ケ・イウ政治犯収容所長に初の判決を出した時は、かつてインドシナ戦争を取材した世界各地のジャーナリストたちが同窓会のように傍聴席に集った。それに比べれば今回の「最後の判決」は、ほとんど注目されなかったに等しい。「犠牲者に正義をもたらした」とする国連や法廷関係者の声だけが虚しく響いた。
この結果は、法廷が正式に設置された2006年にすでに予想されていた。ポル・ポト派ナンバー2のヌオン・チア被告(2019年死去)は2007年に逮捕される直前、「特別法廷は茶番だ」と言ったが、残念ながらそれは当たっていたかもしれない。
ポル・ポト派を国際裁判で裁くことを提唱したのは、人権外交を前面に掲げたクリントン米政権だった。ポル・ポト派が1999年に消滅した後、カンボジアのフン・セン首相は法廷設置に難色を示した。政権内には首相を筆頭に元ポル・ポト派が多かったことが理由だったといわれる。もっとも、中国も米国も、東西冷戦の中でポル・ポト派をコマに使った過去には口を拭った。
米国の関心は間もなく中東へと戻った。支援各国が法廷の支援金拠出を渋る中、米国は日本に、最大支援国としての役割を求めた。「国連安保理の常任理事国になれるチャンスかもしれない」と囁いたといわれる。
紆余曲折の末、特別法廷はカンボジアの国内法廷を国連が支援する、という形で発足した。だが、カンボジア人判事3人、国連側の国際判事2人の合議制が「フン・セン首相の意のままになる法廷」と当初から批判された。「十分な捜査がなされていない」と、カンボジア側と国連側の2人の捜査判事に辞任を求める声が国際人権団体から上がったこともある。一方、国連水準の高給を支払う特別法廷という職場は、その席を巡って汚職を生んだ。
■「教育を信じる」
カンボジア特別法廷は失敗だった。今も世界各地で起きている虐殺の責任者へ「警告」する法廷になぜ、なり得なかったのか。その検証ができれば、虐殺や戦争犯罪を止める手段や、責任者を公正に裁く方策に一歩、近づけるかもしれない。そう考えるのは楽観的過ぎるだろうか。そもそもベトナム戦争時代、米軍はカンボジアの農村部を秘密裏に激しく空爆し、多数の住民が殺害され農村は荒廃したが、これが「大虐殺」として調査されることはないのだ。
プノンペンのある市民は特別法廷を「外国人向けのショー」と表現した。カンボジア人の大半は実際、特別法廷に興味を持っていなかった。複数の国々が複雑に絡んでいたことを彼らは知っている。
「裁判よりも教育を信じる」。ドキュメンタリーや自身の記憶に基づいた作品など、ポル・ポト派に関する映画を撮ってきたカンボジア人映画監督のリティ・パン氏が、そう語ったことがある。政治的思惑が絡んだ特別法廷よりも、時間はかかるが教育こそが、過去を検証し将来の悲劇を防ぎ、社会を再構築することにつながるということだろう。カンボジアの人々は、「ショー」をよそに、自分達の方法でゆっくりと過去の傷から回復していく努力をしている。
(了)