クーデターに抗議し2年の刑務所生活 混迷するミャンマーで教師を支えたのは殺された教え子たち
数万人の市民が留まる町を、軍が封鎖し空爆している。ウクライナやパレスチナのことではない。11月中旬、ミャンマー南東部カヤー州の州都レイコーで起きていたことだ。2021年2月にクーデターを起こした国軍に対し、今年10月末、3つの少数民族武装勢力と民主派の人民防衛隊の連合軍が攻勢を始め、激しい戦闘が繰り広げられているのだ。抵抗勢力がいる地域で一般住民をも攻撃対象にするのは、ここでも軍の常套手段だ。ネットメディア「イラワジ」は11月末、東北部の少数民族武装勢力の発表を引用し、軍が武装勢力と市民に対して化学兵器を使用していると報じた。
とはいえ、複数のネットメディアや英国のBBC放送によると、軍は劣勢で、クーデター後で最大の危機にある。数十の軍拠点が制圧され、中国との貿易で重要な道路も占拠されたのだ。
ここに来て、中国はこれまでとは異なる姿勢を見せている。国境地帯で大規模な軍事演習をし、ミサイル駆逐艦などをヤンゴンのティラワ港に送る一方、軍事政権に抵抗する民主派「国民統一政府」(NUG)と接触している。
背景には、ミャンマー軍が国境地帯をコントロールできないことによる経済的損失への懸念があるようだ。この地域には、ミャンマーの政情不安に付け込んで、オンライン詐欺や人身売買、違法薬物などの犯罪組織が拠点を置き、中国やインドなど周辺国を始めとした各国に大きな被害を与えていると、国連薬物犯罪事務所(UNODC)も警鐘を鳴らしていた。
NUGで「外相」を務めるジンマーアウン氏は11月末の訪日時に、在日ミャンマー人との会合で、「人身売買された中国人をミャンマー側で救出し中国側に引き渡した」と述べ、国境を越えた犯罪に取り組むNUGの姿勢を強調した。さらに「中国は権力を人民に戻すことを望んでいる、と(私たちに)語っている」と明かした。
◾️劣悪な刑務所に今も2万人近く
ミャンマー情勢がどう展開するかは見通せないが、市民の犠牲が増えることは間違いないだろう。国連によると、国内避難民は約200万人。人権団体「政治犯支援協会」(AAPP)は、2021年2月のクーデター以降、軍事政権に殺害された市民は4200人を超え、現在も19700人以上が劣悪な環境の刑務所や拘置所に監禁されていると発表している。解放されても、当局からの執拗な嫌がらせで国外へ脱出し、そこから運動を支援する選択をする人は少なくない。
高校教師のエイエイテッさん(57)もその1人だ。クーデターへの抗議運動に参加したことで逮捕され、2年余りの刑務所での拘禁生活を経て今年5月、釈放された。しかし、深夜の家宅捜索など軍の嫌がらせに危険を感じ、娘のミャッタンタさん(20)と息子のセッカウンサンさん(23)と共にタイに避難し、軍に追われたことで先にタイに避難していた夫、テッナインさん(58)とタイ側で合流して、一家は久しぶりに顔を揃えた。人生で築いてきたものを捨てなければならなかったこの選択で、日本語教師のミャッタンタさんは、国の機関を通して内定していた日本留学を諦めざるを得なかった。
エイエイテッさん母娘が、クーデター後の日々を語った。
++++++++++++++++++++
◾️若い世代に示すためにも
「2020年11月の総選挙に不正があった」。ミャンマー軍トップがクーデターの理由を発表した時、高校で物理を教えていたエイエイテッさんは怒りの感情が沸き上がった。総選挙の監視員を務めたからだった。
「教師は生徒に、何が正しく何が間違っているのかを教える立場なんです。そんな私たちを軍は犯罪者呼ばわりした、と感じました」
クーデターから一週間後、エイエイテッさんは夫や仲間たちと共にクーデターに抗議するため、職場を放棄して軍事政権に打撃を与える非暴力運動、市民不服従運動(CDM)に参加した。
エイエイテッさんと夫は、学生だった1988年にクーデターが起きた時に、民主化要求運動に身を投じた。その経験から、今回のクーデターで人々が抱く怒りはより大きく、抵抗運動は大規模になる、と予測できた。経済的に困窮することも予測されたが、抵抗の意志は変わらなかった。
「80年代にクーデターを経験した私たちは、行動で意志を表すことの大切さを若い世代に示そうと思ったのです」
当時、大学1年生だった娘のミャッタンタさんは、クーデターが自分たちの未来を奪ったと感じた。「驚いたし、悔しかった。私たちは、民主主義の時代がずっと続くと思っていたのです」。エイエイテッさんら両親は、2人の子どもにミャンマーの民主化要求運動の歴史を教えていた。1988年にどんな戦いがあったのか、民主主義や自由がどんなに大切なのか。一家は、連日、クーデターに抗議し、民主化を要求するデモに参加した。
◾️見せしめの逮捕
2021年4月25日の11時半ごろだった。1台の車が自宅前に停まり、20代の女性2人、30代の男性1人が「ちょっと聞きたいことがあります」と家に入ってきた。いずれも私服の警官だった。
「母は動揺した様子はありませんでした。私は怖かったのですけれど」。ミャッタンタさんは、この時のやり取りをはっきりと覚えている。
エイエイテッさんが逮捕されたのは、その地方で運動のリーダーとして知られていた夫への見せしめだった。軍に追われていた夫は2週間ほど前に町を離れていた。ミャッタンタさんと兄のセッカウンサンさんには、大学から「放校処分」が通知された。
警察署の尋問室では10人ほどの警官に囲まれた。
「あなたは、市民不服従運動に参加している教師か」
「そうです」
逮捕理由になる質問に、エイエイテッさんは即答した。しかし、その他の質問には答えなかった。警察は、夫ら運動のリーダー格の人物の居場所や、運動資金を提供した数千人に関する情報を聞き出そうと、何度も同じ質問をした。
実際、エイエイテッさんは、リーダーたちと携帯電話のアプリで運動方針について話すことはあっても顔を合わせたことはなかったし、夫の居場所も知らなかったのだ。
だが、彼女の隣で尋問されていた男性教師は、軍靴で蹴られたりゴム棒で殴られたりし、「情報を教えなければ、もっと痛い目に遭わせる」と脅された。
2日目には、エイエイテッさんも目隠しをされて長時間、尋問されたが、動じなかった。「礼儀正しくない人は、全然怖くないんです。私はもっと怖い経験をしていますから」
尋問する警官たちは、市民不服従運動に参加し軍のクーデターに抵抗する教師は「悪だ」と信じているようだった、と彼女は言う。
◾️コロナが蔓延
3日後に移送された刑務所の女性房には、70人ほどが入れられていた。大半が運動に参加した人々で、10代から70代までと年齢もさまざまだった。トイレは房に一つだけ。夜は床にごろ寝し毛布もなかった。食事はご飯と豆のスープ、といった質素なものが1日3回。3着の上着と民族服のロンジーが支給された。ヒソヒソ声で話すことはできたが、3人以上で話すこと、歌や笑いも禁じられた。
それでも刑務官たちは、暴力を振るうことがない点では、警官よりもマシだった。18歳以下の若者の大半は、刑務所ではなく警察署内で拘留されるが、警官からひどい扱いを受けるという。
約3週間後に、刑務所の隣にある裁判所に出廷させられた。ボランティアの弁護士がついたが相談できず、有罪は最初から決まっていた。
裁判所は、新型コロナの感染拡大ですぐに休廷になった。刑務所では、コロナが大流行し、エイエイテッさんも感染した。刑務所に薬はなく、彼女は重篤な状態に陥った。拘束されている医師と刑務所付きの医師が介抱し、酸素濃縮装置で酸素吸入が行われ、奇跡的に回復した。房内では歩けるようになるまでは3カ月を要したが、刑務所内で教師の仕事を復活させた。午前6時から45分間、房内の人々に体操を教えた。刑務所に掛け合って許可され、仏教や心理学、子供向けの漫画や英語の本を娘に送らせた。誰もが読めるように房内に置き、10代の若者には本を使って勉強を教えた。
◾️教え子たちを思えば
エイエイテッさんを支えていたのは、クーデターに反対して軍に殺害された5人の教え子や、禁錮40年の刑を受けた学生たちだった。
「彼らのことを考えると、どんなことも我慢できる、という気持ちになります」
裁判が再開され、エイエイテッさんたちは一週間に一度、出廷した。20人ほどの被告が集団で、刑務所の隣にある裁判所へ、そして裁判所から刑務所へと歩く5分間が、家族が互いを確認できる時間だった。
「何時間も外で待って、刑務所や裁判所から出てきた家族に大声で叫ぶのです」とミャッタンタさん。
「お母さん、元気ですか」
5メートルほど離れた場所からの叫びは、届いていた。「子どもたちの声は、とても力になりました」とエイエイテッさんは言う。
2023年5月3日、エイエイテッさんは釈放された。市民不服従運動に参加したことで禁錮3年の判決を受けたが、すでに拘禁は2年以上に及んでいたからだ。釈放はその日の朝に告げられた。
「元気な姿の母を見た時は、泣きたいくらいに幸せでした」とミャッタンタさんは振り返る。
しかし、警察や兵士からの嫌がらせが続いた。真夜中に武装した複数の兵士が訪れ、午前3時ごろまで自宅を捜索して尋問したり、庭を掘り返したりした。警察に逮捕された若者の1人が、少数民族武装勢力の支配地域のジャングルでミャッタンタさんの父に会ったと漏らしたからのようだった。
「父親はどこにいるのか」「インスタントラーメンがたくさんあるのはなぜか」
嫌がらせは決まって深夜から翌日未明にかけて行われたため、ミャッタンタさんは眠れないまま、日本語クラスの教壇に立たなければならなかった。
家族3人で話し合い、父がいるタイ側に密かに行くことを決めた。辛い決断だった。ミャッタンタさんは、翌年の4月に国の機関を通じて決まった日本留学を楽しみにしていたが、諦めざるを得なかった。飼っていた犬3匹は、友人に引き取ってもらった。日本語クラスの生徒たちにも別れを告げないままだった。
車で国境の街まで行き、国境の橋を渡った。橋の向こう側ではテッナインさんが待っていた。パスポートを使った合法的な出国だったので記録は残り、安心はできないが、一家はひとまず小さな家に落ち着いている。
「刑務所で今も拘束されている人たちが気に掛かる。でも戦いをここで続け、私たちは必ず勝利します」と語るエイエイテッさん。
「両親は私の誇りです」。ミャッタンタさんはきっぱりと言った。
(了)
【この記事は、Yahoo!ニュース エキスパート オーサーが企画・執筆し、編集部のサポートを受けて公開されたものです。文責はオーサーにあります】