今川氏真の妻で北条氏康の娘だった早川殿とは、どんな女性だったのか
大河ドラマ「どうする家康」では、武田信玄が駿河に攻め込んで来た際、今川氏真の妻・早川殿には乗物の準備もなかったという。早川殿はどんな女性だったのか、考えることにしよう。
永禄11年(1568)12月、武田信玄の軍勢が駿府に侵攻し、たちまち制圧した。今川氏真は逃亡したが、妻の早川殿(北条氏康の娘)には乗物すら準備されていなかった。あまりの氏真の不甲斐なさに、氏康は激昂したという。
早川殿は生年不詳。北条氏康の娘である(四女との説がある)。生年は諸説あるが、おおむね天文15年(1546)から天文17年(1548)の間に誕生したのではないかといわれている。早川殿と称したのは、のちに小田原近くの早川郷に居を構えたからである。
折しも今川、武田、北条の三氏は互いの敵対関係を解消すべく、甲相駿三国同盟を締結した。それは、互いに婚姻関係を結ぶことによって結んだものだった。従来言われたような、一堂に会して結ばれたものではない。
天文23年(1554)7月、早川殿は甲相駿三国同盟のため、今川氏真(義元の子)のもとに嫁いだ。早川殿が相模から駿河へ向かう婚儀の行列は、見事なものだったと伝わっている。当時は娯楽も乏しかったので、多くの人が見物したという。
しかし、当時の早川殿はまだ10歳前後の少女だった。長女(吉良義定の妻)をもうけたのは、永禄10年(1567)のことである。その翌年、武田信玄が駿河に侵攻したので、駿河は大混乱に陥った。
氏真は人望がなかったのか、家臣に裏切られ、たちまち窮地に陥った。逃亡した氏真は掛川城(静岡県掛川市)に移ったが、永禄12年(1569)に事実上の滅亡となった(大名としての地位を失う)。以後、氏真と早川殿は、各地を転々とする生活を余儀なくされた。
氏真は駿河での復活を希望したが、元亀2年(1571)に甲相同盟(武田氏と北条氏の同盟)が結ばれ、駿河は武田氏の領国となった。これにより、氏真の駿河復帰は絶望的となった。
以後も早川殿は夫と行動をともにしたが、それは苦難の連続だった。早川殿が亡くなったのは、慶長18年(1613)2月のことである。その墓は、今も観泉寺(東京都杉並区)にある。