平治の乱前夜、平清盛と源義朝はどのような状況にあったのか
大河ドラマ「光る君へ」の舞台は、公家が我が世を謳歌した時代である。のちに保元の乱が勃発すると、武家が強い存在感を示し、平治の乱で武家の実力がはっきり証明された。今回は、平治の乱の状況を考えてみよう。
保元の乱後、後白河上皇のブレーンだった藤原信西と強い関係を持っていたのが、平清盛である。清盛は畿内近国から西国にかけて勢力基盤を保持し、その武力を誇示していた。一方、出世の面で清盛に後れを取った源義朝は、政治力が乏しく、焦りを感じていた。
この間、信西のライバルである、藤原信頼も台頭しつつあった。保元3年(1158)、後白河が信頼を右近権中将に登用すると、以後の信頼は急速なスピードで出世を遂げた。
同年8月、後白河上皇の院庁(上皇直属の政務機関)が設置されると、信頼は厩別当(院の軍馬を管理する職務)に任じられ、26歳という若さで参議に昇進したのである。
同年、早くも信頼は正三位権中納言に昇り、さらに右衛門督を兼ね、検非違使別当まで昇進した。検非違使とは、京都の治安維持と民政を担当する職務で、別当とは長官のことである。
信頼はさらに大臣・近衛大将の任官を希望したが、信西の諫奏によって阻止されたという。こうしたことは、信頼と信西との確執を深める要因となった。
清盛をライバル視する義朝と、信西と対立する信頼は共通の利害によって結ばれた。このほか、義朝と信頼には後白河の近臣である、藤原成親(藤原家成の三男)や源師仲が加わった。こうして信頼と義朝はクーデターを画策した。それが平治の乱である。
平治元年(1159)、清盛は京都をあとにして、熊野詣に出発した。同年12月9日、信頼と義朝は、その隙を狙って挙兵したのである。
同年12月9日の深夜、信頼らの軍勢が院御所の三条殿を急襲し、後白河上皇らを捕縛すると、二条天皇のいる大内裏へと移した。ただし、肝心の信西らの一族は、すでに逃亡したあとだった。信頼らのクーデターは、二条親政派の支援があったものと考えられている。
翌12月10日、信西の息子(俊憲・貞憲・成憲・脩憲)が捕らえられた(その後、流罪に)。信西は山城国田原に逃れたが、12月13日に自害して果てた。その首は京都に持ち帰られ、獄門に晒されたのである。こうして信頼は、ライバルの信西一派を一掃することに成功した。
しかし、ただちに平清盛は、この事態を収拾すべく動いた。義朝と信頼は、清盛と交戦するが、思わぬ結果が待ち受けていた。その点は、改めて取り上げることにしよう。