樋口尚文の千夜千本 第93夜「心に吹く風」(ユン・ソクホ監督)
恋の初期微動を繊細な地震計のように感じとる
この映画を初号試写で観た後の驚きは、1981年時点で澤井信一郎監督の『野菊の墓』を東映の封切館で観た時のものに似ている。これはいったい全体いつの映画なのか。塩分と脂質だらけの刺激的な設定や、絶叫と号泣だらけの破廉恥な演技ばかりが目につく新作映画のなかにあって、この何ひとつ目立った出来事の起こらぬ静寂の107分は、いかにも異質である。いや、別に何も起こらぬ静寂な映画が無条件に豊かな映画かというとそうではないのだが、この作品はそうあることに対して激しく頑なな意志があって、そこが特異なのである。
これは韓国のユン・ソクホ監督が、なんと初めて手がけた劇場用映画だ。もっとも大ヒットドラマ『冬のソナタ』の監督がこれだけ小ぶりの作品を撮ることになったのは、途中で種々のいきさつもあったようだが、しかし結果としてこの作品のサイズは監督の意志が無造作に露出しているようなおもむきがあって、かえってよかったのではないかとも思う。何よりユン・ソクホ監督は、作品の規模と引き換えに実にのびのびと好きな世界に耽溺しているように見える。
さて、主人公のリュウスケ(眞島秀和)が春香(真田麻垂美)に雨宿りの倉庫で一輪の花をさし出したりするので、本当にこの二人は『野菊の墓』の政夫と民子みたいなクラシックさなのだが、しかし『秋の童話』や『冬のソナタ』のことを考えると、このユン・ソクホ的な人物と感情の表現はちょっとクラシックなフレームのなかで懐古的に褪色したものではないのだった。思えば『野菊の墓』の感動の根拠もそこにあったのだが、澤井信一郎の端正な映画話法のなかで、あのアナクロのきわみとも言うべき政夫と民子はスクリーンの中で明らかに現在のものとして「生きて」いた。
『冬のソナタ』がなぜあれほど数多くの女性ファンの心を根っこのところでつかみ得たかというと、あのケレン味だらけの大映テレビの『赤い』シリーズよろしき大時代な恋愛の波乱ゆえのことではなかろう。なぜならそういう設定については、凡百のほかのドラマにだっていくらでも見出せるからだ。だが、『冬のソナタ』のペ・ヨンジュンもチェ・ジゥもパク・ヨンハもそんなオオゴトな設定を剥いだところで恋愛表現の細部が紋切型化せずに「生きて」いたのだ。当時の時評で私はペ・ヨンジュンの集中力を「演技サイボーグ」と驚きをこめて讃えたのだが、それもこれも細部を虚構として熟成させるユン・ソクホ監督の演出を受けて立ってのことだろう。
そして今回の『心に吹く風』では、その監督の演出ごころが原液のまま染みわたっている感じであった。冒頭、しばらくの間、特に春香の台詞の緩慢さとあまりの静謐さに、これはいったいどういう映画なのかと心配にさえなったのだが、ほどなくして観る者はこのユン・ソクホ監督の「構え」に呑まれていくことだろう。リュウスケと春香は北海道の絵本のごとき風景をめぐって、初恋の頃を回想する。この素朴で何も起こらない23年前への遡行は、しかしまるでノスタルジックではなく、まるで昨日のことのように今日現在のリュウスケと春香の恋模様につながっている。ドキュメンタリー番組でユン・ソクホ監督は、こうした初恋というモチーフが好き過ぎて、いくつになってもそこから抜け出せないと言う意味のことを語っていたが、それは結局、初恋が、男女の関係がいったんの決着を見ていない、あやふやに宙づられたモードであって、それこそ映画を「生きさせる」恰好のモチーフだからだろう。
そんな本作にあるのは「今日も明日もと会うことに意味はない」と思いを押しとどめて携帯番号も教えない春香、対して「それなら君が来るまで待っている」と思いを曲げないリュウスケ、このほんのちょっとした、永遠の思春期のような感情のさざなみのみだ。春香の義母が「またカレーなの」と不平を言ったり、森の所有者が「不法侵入だ」とリュウスケにクレームを言ってきたりするのが大事件に感じられるほど、ユン・ソクホ監督はそれはもうミクロで繊細な思いだけに映画を絞り込む。そういうガラス細工のような、というとやけに陳腐ではあるが、そんな感情のこまやかな機微だけで語りきろうという監督は(柔らかな映像とは対照的に)ひじょうに意志的で、そこにいつの間にやら強く惹かれてしまうのだった。余計な小芝居を排除した主役の二人の演技も、厳しい制作条件のなかで清冽な美しい映像を実現した高間賢治の撮影も、この監督の意図にしかと応えていたと思う。